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【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

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武田勝頼の三河侵攻により勃発した徳川と武田の激突、長篠設楽原の戦いです。「鉄砲三段撃ち」や「武田騎馬軍団vs鉄砲隊」の話が取りざたされますが、戦いに至る流れやその後の動きなどを見ることによって、真の長篠設楽原の戦いが見えてくると思います。今回はこの戦いに迫ります。

※長篠合戦、長篠の戦い、長篠役など呼び方がいくつもありますが、本稿では長篠城での戦いと設楽原での決戦を合わせた「長篠設楽原の戦い」と表記しました。

長篠城の攻防と設楽原での激突

長篠城の攻防と、設楽原での激突。長篠城救援部隊(酒井忠次隊)の動き

1575年(天正3年)4月、武田信玄の後を引き継いだ武田勝頼は15,000の大軍を率いて三河に侵攻しました。5月1日には長篠城を包囲し、豊川(とよがわ)を挟んだ南岸には鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を中心に、姥ケ懐砦(うばがふところとりで)、中山砦、久間山砦(ひさまやまとりで)、君ヶ伏床砦(きみがふしどとりで)を築きました。長篠城主は2月に入城した奥平信昌です。勝頼は5月11日から長篠城への猛攻撃を開始しました。

34歳の家康は4月末に浜松城から吉田城に入城して籠城していましたが、武田軍の猛攻を防ぐために織田信長に再三援軍の要請をしていました。そして信長と嫡男信忠は5月13日に30,000の兵を率いて岐阜城を出立、熱田で先勝祈願をしたのち、5月14日に岡崎城で家康と合流しました。

その後、織田・徳川連合軍は5月16日に牛久保城、17日に野田原を経由して、18日に設楽原に到着しました。極楽寺山に信長、新御堂山に信忠、有海原(設楽原)に滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀らが着陣、家康は古呂道坂の上の高松山に布陣し、有海原で連吾川を前に当てて、武田軍の滝川一益とともに馬防柵の設置を開始しました。織田・徳川連合軍は設楽原周辺のくぼんだ地形を利用して、武田軍から大軍が見えないように配置したと言われています。
一方、織田勢の援軍が迫っていることを知った武田勝頼は、長篠城の包囲に必要な軍勢およそ2,000、砦群の軍勢2,000を残し、5月20日、決戦のために全軍11,000を率いて滝沢川を超え、有海原(設楽原)へと進んでいきました。

そのころ織田・徳川連合軍は包囲された長篠城を救うため、酒井忠次を大将とした長篠城救援部隊を編成しました。弓・鉄砲隊2,000、信長の馬廻衆500を加えた総勢4,000の部隊です。20日戌の刻(午後8時ごろ)に出立した救援部隊は、乗本川を超えて南の山地を回って鳶ヶ巣山にのぼり、21日辰の刻(午前8時ごろ)に数百艇の鉄砲を砦に向けて打ち込みました。奇襲攻撃を受けた武田軍は善戦しましたが壊滅し、生き延びた兵は逃げ散りました。
武田軍による長篠城包囲陣は崩壊し、武田勝頼の背後を絶つことに成功しました。

前面の敵を打ち破るしかなくなった武田軍は、この鳶ヶ巣山砦の攻撃を合図として猛攻を始めました。「信長公記」によると一番手・山県昌景(やまがたまさかげ)、二番手・武田信康(たけだのぶやす、信玄の弟)、三番手・小幡勢の赤の具足をまとった騎馬隊、四番手・武田信豊(たけだのぶとよ、信玄の甥)、五番手・馬場信春(ばばのぶはる)が波状攻撃を仕掛けてきましたが、鉄砲と足軽隊によって応戦し、馬防柵より一隊も出撃させずに応戦したとあります。明け方から未の刻(午後2時ごろ)まで鉄砲隊を入れ替わり立ち替わりさせて戦い、武田方は多くの兵が討たれて次第に兵力が少なくなり、諸勢は本陣へと逃げ戻っていきました。勝頼本陣では武田信豊や小山田信茂らが固まるように布陣しますが、織田・徳川軍は柵から一斉に押し出して襲いかかり、武田軍を退却に追い込みました。この追撃戦の中、山県昌景、真田信綱ら武田方の主だった武将が戦死し、勝頼は命からがら退却していったのでした。
こうして、長篠城と設楽原で起こった激突は織田・徳川連合軍の勝利で幕を閉じたのです。

長篠の戦いでは「鉄砲三段撃ち」や「武田騎馬軍団vs鉄砲隊」という話が良く出ますが、近年の研究の成果によってこれら従来説が見直されてきています。詳細は別の機会に譲りますが、一つだけ話をするならば、この戦いはあくまでも家康の領国・三河への武田勝頼の侵攻に対しての戦いであり、その主役は家康と勝頼であること、さらに信長は家康の要請によって援軍として参戦しているだけであることを、認識として新たにしておく必要があるでしょう。

「決戦」までは三河で攻防が繰り広げられていた

長篠城。豊川と宇連川が合流する断崖絶壁に守られた天然の要塞だった

武田勝頼が長篠城を攻撃したのは、武田氏を裏切って徳川方についた奥平貞昌を討つためと言われることがありますが、果たしてそうなのでしょうか?
答えはNoです。勝頼は三河・遠江へ侵攻を重ねており、その一環として長篠城を攻撃したのです。そして上述した長篠設楽原の戦いになっていきました。

ここでは、勝頼の三河侵攻とそれに対抗する家康の動きを見ていきましょう。
1573年(天正元年)、武田軍は西上作戦の途中で信玄公を失いました。このとき勝頼も前線で戦っていましたが、甲斐への撤退を余儀なくされました。三方ヶ原の戦いで敗れた家康でしたが、その後は攻め取られた諸城を奪い返す動きに転じています。

同年7月には長篠城を攻めて城主・菅沼正貞を退け、長篠城には家臣の松平景忠(まつだいらかげただ)を配備して防備を固めます。そのころ、武田に与していた山家三方衆の奥平氏に対し、家康は亀姫と奥平貞昌との婚姻や領地加増などの条件を出して取り込みました。1575年(天正3年)2月には奥平信昌を長篠城に入城させて城主にしました。信昌は長篠城を大改修して要害堅固な城に作り替え、家康は大いに喜んだといいます。

一方の勝頼は東美濃や遠江に侵攻するなどして勢力圏の拡大を図っていました。この一連の侵攻で有名なのが高天神城の戦いです。さらに、信玄公の三回忌法要を済ませた勝頼は遠江だけでなく三河へも侵攻を開始しました。
武田軍先陣は4月15日に足助城を包囲して降伏させると、岡崎城に侵攻する予定でしたが取りやめて作手古宮城に入り、勝頼本隊の到着を待ちます。勝頼は4月20日ごろ甲府を出陣し、諏訪を経て南下、遠江に入ると二俣城に着陣。家康の居城である浜松城をけん制しながら三河へと進み、作手で先陣と合流しました。

岡崎城では家康の息子・信康擁立派がひそかに武田氏と通じて家康排除というクーデターを計画していたようですが、密告により発覚して失敗に終わりました。これにより武田軍は岡崎への進軍をやめ大野田城を攻め取り、南下して吉田に進んで二連木城を陥落させます。この間、家康・信康父子は吉田城に入城します。

勝頼は吉田城攻略を試みますが、家康本隊も加わって2000余りで吉田城に籠城し、勝頼に対抗しました。吉田城を攻略すれば徳川領国を東西に分断することができるため、勝頼は吉田城攻略にこだわりましたが、攻め落とすことを諦めて全軍を率いて対象を長篠城に変更しました。
このように勝頼は、離反した奥平氏に激怒して長篠城を攻めたのではなく、三河・遠江を分断するために吉田城攻めを試みたが失敗に終わったため、作戦を変更して長篠城攻略に切り替えたのです。家康はなんとか吉田城を守り、信長の援軍を待ちました。

少し余談ですが、武田氏による奥三河侵攻について。従来は信玄が上洛するためとか、港のない武田にとっては三河や遠江は貿易拠点となるために是が非でもほしかったなどと言われていますが、近年とても興味深い新説が出ました。それは鉛などの鉱山をめぐる争いではないかというものです。武田も鉄砲を入手して戦いに用いられていたことは知られていますが、港がないために調達に難がありました。それは鉄砲の玉=鉛も同じです。奥三河には鉛が取れる鉱山があり、こうした鉱山を手に入れたいがために侵攻してきたというのが新説です。NHKの歴史番組「歴史探偵」で長篠古戦場出土の鉛玉の化学分析を行ったところ、長篠城近くの睦平鉛山(むつだいらかなやま)から採掘された鉛と一致するものがあったというのです。これによりこの新説が出たわけですが、まだまだ推測の域を超えませんので、今後の研究が進むことを期待しましょう。もしかしたら今までの通説が変わっていくかもしれませんね。

勢いに乗る家康。遠江攻略へ

長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)

設楽原の戦いで勝利を収めた織田・徳川連合軍ですが、その後の動きについてざっくりとみていきましょう。
家康と織田信忠は21日に長篠城に入城して奥平信昌を称賛し、信長も使者を派遣して讃えたと言います。このまま武田軍を追撃して信濃や甲斐に攻め入れば手間も少なく奪えるはずですが、深追いはしませんでした。長篠設楽原の戦いで大勝したとはいえ、武田軍を甘くは見ていなかったのでしょう。織田信長は離脱して5月25日に岐阜に帰陣しました。

家康は長篠にとどまって奥三河の武田方諸城の攻撃に移りました。田峯城、作手古宮城、岩小屋砦などです。また鳳来寺など武田方拠点に迫って城砦を手にしていきました。これらは奥平信昌に与えられ、領地加増の約束を果たしたのです。残るは武節城だけとなりましたが、6月に織田方が攻撃して陥落し、武田に攻め寄られていた奥三河は徳川の手に収まりました。

さらに家康は遠江・駿河の武田領へ侵攻を開始しました。6月〜7月にかけて遠江犬居谷の光明城、樽山城、勝坂城、犬居城などを攻略し、二俣城の補給路を遮断しました。8月には遠江諏訪原城を攻略し、続いて小山城も包囲します。小山城救援として勝頼が出陣したため、家康は撤退しましたが、12月には二俣城を開城させることに成功しました。このように遠江の侵攻を進めて周辺の城を攻め落とし、ついに高天神城の戦いへと進んでいくのです。これは次回、書くことにします。

鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の話

鳥居強右衛門磔死之碑。磔にされながらでも味方のために叫んだと言われる

長篠の戦いで忘れてはいけないのが、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の話ですので、ここでザクっとまとめておきます。
5月13日、長篠城を武田方に包囲された城主・奥平信昌は事態打開のために岡崎城の徳川家康に援軍を要請することとしました。その使者として指名されたのが鳥居強右衛門です。

武田軍に完全に包囲されている中、5月14日の夜に城を出て豊川を泳いで下り、翌朝に雁峰山でのろしを上げて脱出成功を知らせ、すぐさま岡崎城に向かいます。夜には岡崎城に無事到着。家康・信長に呼ばれて現状を報告すると「長篠に必ず救援に向かうので、いましばらく城を保持せよ」と言われ、急いで長篠城に戻っていきました。実際に5月14日には家康と信長が岡崎城にいたので、この話は本当のようです。

長篠城に戻った強右衛門ですが、城に入れずに武田軍に捕縛されてしまいました。勝頼は強右衛門に「援軍は来ないと城に伝えれば、助命して十分な知行を与える」と約束をしました。磔にされた強右衛門は約束を破って「信長は岡崎まで援軍に来ている。もう少しの辛抱だ」と叫んだため殺害されてしまいますが、これを聞いた城兵の士気は上がり、猛攻を耐え抜いたといいます。

戦国時代の戦いにはこういったエピソードがいくつも残されています。真実か否かがわからないものが多いですが、情勢や戦いの様子を想像するにはこのようなエピソードを知っておくのも良いかと思います。

まとめ

武田勝頼の三河侵攻により勃発した長篠設楽原の戦いです。「鉄砲三段撃ち」や「武田騎馬軍団vs鉄砲隊」の話が取りざたされますが、戦いに至る流れやその後の動きなどを見ることによって、真の長篠設楽原の戦いが見えてきたのではないでしょうか。周辺諸城をめぐるなどして、武田と徳川の戦いに思いをはせてみてください。

参考文献

  • 日本戦史 長篠役(明治36年6月20日、参謀本部)
  • 三方原・長篠の役/日本の戦史2(旧参謀本部編、昭和40年7月1日、徳間書店)
  • 現代語訳 信長公記(太田牛一著、中川太古訳、2013年10月13日、KADOKAWA)
  • 歴史人 (令和4年7月6日、第13巻第8号 通巻140号、ABCアーク)
  • 歴史人 (令和4年10月6日、第13巻第11号 通巻143号、ABCアーク)
  • 「徳川家康の決断」 (本多隆成、2022年10月25日、中央公論新社)
  • 「徳川家康の素顔 日本史を動かした7つの決断」 (小和田泰経、2022年10月8日、宝島社)
  • 「武田三代 信虎・信玄・勝頼の真実に迫る」 (平山優、2021年9月28日、PHP研究所)
  • 「新説 家康と三方原合戦」 (平山優、2022年11月10日、NHK出版)
  • 「徳川家康という人」 (本郷和人、2022年10月30日、河出書房新社)
  • 「長篠合戦と武田勝頼」 (平山優、2014年2月1日、吉川弘文館)
  • 「検証 長篠合戦」 (平山優、2014年8月1日、吉川弘文館)
  • 週刊 日本の城 改訂版 (デアゴスティーニ・ジャパン)
  • 週刊ビジュアル 戦国王 (ハーパーコリンズ・ジャパン)
  • 週刊 新説戦乱の日本史 長篠の戦い (小学館)
  • 歴史群像シリーズ⑪ 徳川家康【四海統一への大武略】 (1989年4月1日、学習研究社)

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