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【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦!

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二度ではなく、実は三度の攻防があった

一般的には「高天神城の戦い」と言えば、1574年(天正2年)と1581年(天正9年)の武田勝頼と徳川家康による高天神城争奪戦のことを指しますが、じつは1572年(元亀3年)にも一度武田信玄が高天神城を攻めているため、武田と徳川による争奪戦は三度行われていることになります。
以下ではその三度の攻防戦を順番に見ていきましょう。

第0次高天神城の戦い/1572年(元亀3年)信玄vs家康

高天神城遠景

この戦いは武田信玄による遠江・三河侵攻作戦の一環で行われたものです。高天神城は徳川方の小笠原氏助が城主でした。1572年(元亀3年)2月、信玄は2万の大軍を引き連れて甲斐を出発、高天神城の東10kmの塩買坂(しょうかいざか)に陣を張り、籠城する小笠原氏助と対峙します。しかし10月21日までには降伏して開城しました。その後、信玄は西へと向かい、三方ヶ原の戦いへと進んでいきました。高天神城では家康は直接対決することはありませんでしたが、なかなか苦しい時期であったことは間違いありません。

第1次高天神城の戦い/1574年(天正2年)勝頼vs家康

高天神城と武田勝頼

武田信玄が亡くなった後を引き継いだ勝頼は、1574年(天正2年)5月に遠江に侵攻します。兵の数は20,000とも25,000とも言われます。5月12日には高天神城を包囲しました。城主は小笠原長忠で、武田軍と対峙するのは2回目ということになります。小笠原は浜松にいる家康(33歳)に援軍要請をしました。それを受けた家康は徳川軍だけでは太刀打ちできないと判断し、織田信長に援軍の要請をしました。しかし、信長は石山本願寺との交戦の真っ最中で、援軍を差し向けることはできない状況でした。そのため、高天神城は自力で守るしかなかったのです。

勝頼はそんな状況を知ってか知らずか、穴山信君(梅雪)を使って小笠原に対して降伏を勧めます。小笠原がそれに応じなかったため、5月末より攻撃を開始。周辺の曲輪から徐々に落としていき、5月28日には本曲輪、二の曲輪、三の曲輪などが残るのみとなり、さらに6月10日には堂の尾曲輪が落ち、本曲輪と二の曲輪を残すのみとなってしまいました。
援軍要請されていた信長はようやく6月14日に岐阜を出立し、6月17日には三河吉田城に入城しました。

しかし、高天神城の小笠原はもう耐えきれないと判断し、6月17日に降伏、開城しました。信長の援軍がもう少し早ければ情勢は変わっていたかもしれません。降伏の知らせを聞いた信長はすぐさま岐阜へ帰っていきました。
勝頼は小笠原に開城するにあたって好条件を出していました。一つ目は駿河富士郡一万貫の恩賞を約束する、二つ目は城兵の命を保障する、三つ目は開城後は武田についても徳川についてもOK、というものでした。
この条件をのんだ小笠原の降伏によって、第1次高天神城の戦いは幕を閉じたのです。強力な武田軍を前に家康は手も足も出なかったというのが本当のところでしょう。

第2次高天神城の戦い/1581年(天正9年)勝頼vs家康 

高天神城、高天神六砦と周辺の城(国土地理院地図をもとにたかまる。が作成)

第1次高天神城の戦いの後、長篠設楽原の戦いが起こり勝頼と家康のパワーバランスが変わっていきました。そんな情勢を好機ととらえた40歳の家康は、遠江平定の仕上げとして高天神城攻めを行いました。
(長篠設楽原の戦いについてのコラムを読んでからこのセクションを読むと、より一層理解が深まります)

1581年(天正9年)3月、家康は高天神城を包囲します。家康軍5,000に対し、城主・岡部(長教)元信率いる高天神城は兵700。岡部は1579年(天正7年)8月より城番となり、勝頼に援軍を要請していました。しかし勝頼からの援軍はなく、迎えた1581年(天正9年)1月には家康に対して降伏を申し出ていました。しかし家康は降伏の申し出を拒否し、高天神城を攻めることにしたのです。
前にも後ろにも進めなくなってしまった岡部は3月22日、城兵全員が打って出て680余名が討ち死にしました。これが第2次高天神城の戦いです。

しかし、ここに至るまでの過程が面白いので、少し突っ込んで見ていきましょう。

まず、高天神城に勝頼からの補給が入ってしまっては城を攻め落とすことは困難になるため、家康は周囲の城をひとつづつ攻略していきました。周りに残った武田方の城は小山城、滝堺城、諏訪原城となりました。さらに、1575年(天正3年)8月に諏訪原城を攻め落とし、残すは高天神城、小山城、滝堺城のみとなりました。ここで家康は高天神を取り囲むように城や砦群を築いていきました。この砦群は「高天神六砦」と呼ばれています。
1576年(天正4年)に横須賀城を築城。1579年(天正7年)には小笠山砦、三井山砦を、1580年(天正8年)には能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、中村坂山砦を築き、徐々に高天神城を包囲していきました。

武田方としては駿河湾沿いの城を維持し、ここから高天神城に兵糧を入れていましたが、高天神六砦がその補給ルートを遮断したため高天神城は孤立状態に陥ったのです。家康はただ単純に城攻めをしたのではなく、高天神攻略のために時間はかかっても周囲をしっかりと取りながら確実に落としていったところが、高天神城の戦いの本質なのだと思います。
高天神城が落城した後には滝堺城、小山城も落城し、家康は遠江から武田の勢力を追い出すことに成功しました。

また、籠城していた高天神城から降伏の申し出があったにもかかわらず家康は拒否しますが、ここにも興味深いやり取りが隠されています。それは、信長から家康の叔父・水野忠重への1581年(天正9年)1月25日付朱印状から読み取れます。ここには信長の考え方が述べられており、それを受けた家康の行動が興味深いところです。
この書状から次のようなことがわかります。①高天神城から矢文で降伏を申し出てきたこと、②勝頼は援軍は出せないと推測している、③高天神城だけでなく小山城と滝堺城も降伏するとの申し出であること、④城を見捨てたとなれば勝頼の評判はがた落ちするとみていた、⑤そうなれば駿河も制圧できるだろうと考えていた、⑥降伏を受け入れるかは徳川家中で相談して決めてくださいと締めくくっている。

勝頼が援軍が出せない状況であることも情報として掴んでいて、それを踏まえた上で、城を見捨てたとなれば武田の統制は取れなくなるだろうと推測しています。しかし、最後の文がとても大事で、降伏受け入れ可否については「徳川家中」で決めてくれと言っているのです。これは、あくまでも遠江は徳川の所領であり、高天神城をめぐる武田との争いは徳川と武田の争いだから家康が判断することだと認識しているということを表しています。
なかなか面白い書状です。信長と家康でこんなやり取りがあって、家康は降伏受け入れ拒否を決めました。
高天神城の顛末は前述したとおりですが、落城後は高天神城は廃城となりました。

その後、織田・徳川・北条が連携して勝頼を攻めて武田は滅亡しましたが、それも束の間、3か月後には本能寺の変で信長が倒れ、信長家臣団の中から羽柴秀吉が台頭してくることになります。
家康は織田軍が攻め進めていた甲斐・信濃を攻めて奪い取り(天正壬午の乱)、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を領有する大名となります。織田家は信長の次男・信雄が尾張・伊賀・伊勢を、池田恒興と息子がそれぞれ大垣城・岐阜城に入って美濃を治め、恒興の娘婿である森長可が美濃金山城に入って東美濃を平定しました。
このように情勢が刻一刻と変わっていく中で、羽柴秀吉と織田信雄の関係が悪化していき、家康も参戦することとなる小牧・長久手の戦いへと進んでいきます。
次回は、小牧・長久手の戦いについて書いていきます。

まとめ

武田と徳川の間で起こった「高天神城の戦い」は3度起こりました。最後に高天神城を攻め落とした家康は遠江を平定することに成功し、その後の五か国領有へとつながっていきました。長篠設楽原の戦いとあわせて見ていくと、その流れが良くわかると思います。

参考文献

  • 現代語訳 信長公記(太田牛一著、中川太古訳、2013年10月13日、KADOKAWA)
  • 歴史人 (令和4年7月6日、第13巻第8号 通巻140号、ABCアーク)
  • 「徳川家康の決断」 (本多隆成、2022年10月25日、中央公論新社)
  • 「徳川家康の素顔 日本史を動かした7つの決断」 (小和田泰経、2022年10月8日、宝島社)
  • 「武田三代 信虎・信玄・勝頼の真実に迫る」 (平山優、2021年9月28日、PHP研究所)
  • 「新説 家康と三方原合戦」 (平山優、2022年11月10日、NHK出版)
  • 「徳川家康という人」 (本郷和人、2022年10月30日、河出書房新社)
  • 「長篠合戦と武田勝頼」 (平山優、2014年2月1日、吉川弘文館)
  • 袋井市教育委員会・掛川市教育委員会共催特別展「馬伏塚城と高天神城展」パンフレット
  • 「現代語訳 家忠日記」 (中川三平編、令和元年5月1日、KTC中央出版)
  • 週刊 日本の城 改訂版 (デアゴスティーニ・ジャパン)
  • 週刊ビジュアル 戦国王 (ハーパーコリンズ・ジャパン)
  • 歴史群像シリーズ⑪ 徳川家康【四海統一への大武略】 (1989年4月1日、学習研究社)

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