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細川玉子さんによる神君伊賀越えの紹介

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京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの細川玉子さんに「神君伊賀越え」について紹介していただきました。家康生涯の危機トップ3にも数えられる出来事ですが、そのゆかりの地である京田辺市で現在「京田辺伊賀越えスタンプラリー」が開催中だそうですよ。

大河ドラマ「どうする家康」、皆様はご覧になられておりますでしょうか?
放送後はSNSも大変盛り上がり、今後の展開も楽しみですよね!

わたくし「細川玉子」は、京都府は長岡京市の公式武将隊「京都・長岡京おもてなし武将隊つつじ」として活動しており、此度は"京都"の家康様ゆかりの地をご紹介させていただきます。

京都・長岡京おもてなし武将隊つつじ

 

京都府長岡京市の公式武将隊として活動。
勝龍寺城を中心に、明智光秀、ガラシャ姫、細川忠興らの武将や姫が、殺陣(たて)や詩吟、舞を織り交ぜた演武や甲冑劇を行い、長岡京市の歴史・魅力を発信しております。
また、福知山市や舞鶴市、亀岡市、京田辺市などの京都府をはじめ、岐阜県、滋賀県、福井県、愛知県、兵庫県などの歴史イベントも盛り上げ、明智家や細川家ゆかりの市町との架け橋となる活動も行っております。

京都と家康様のゆかりの地といえば、二条城などが有名かと思いますが、今回ご紹介させていただきますのは、二条城ではございません。
では、どちら? と思われる方もおられるかもしれませんが、その土地は"京田辺市"にございます。

京田辺市には「神君伊賀越え」の伝承が、多く残されている土地にございます。
そこでまず、神君伊賀越えについてお伝えさせていただきます。

神君伊賀越えとは

1582年(天正10年)6月2日に起きた「本能寺の変」――わたくしの父上、明智光秀が主君である織田信長様をお討ちになられた、知らない方はいないであろう、歴史的大事件です。

本能寺の変と家康様にどういった関係が? と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
実はそこには、武田家との戦が関係しております。

1575年(天正3年)の、長篠の戦いで武田軍に勝利した、織田・徳川連合軍。
武田家に仕えていた穴山梅雪様も武田家を離反され、織田徳川の連合軍につきます。
内応する条件として、人質の逃亡と甲斐一国の拝領、さらに武田氏の名跡継承を条件に、家康様の誘いに乗り、信長様に内応。甲州征伐の際に、貢献したと伝わっております。

その後、多くの家臣の離反も起こり、1582年(天正10年)3月に、武田勝頼様が自刃され、甲斐武田氏は滅亡。
家康様も活躍が認められ、信長様より、駿河・遠江の両国(現在の静岡県)を進呈され、梅雪様も本領を安堵される形となりました。
こうして家康様と梅雪様は、信長様へ御礼を伝えるため、安土へ向かうことになったとのこと。

家康様らは、安土城にてもてなしを受けられたのち、信長様からの勧めもあり、京都や堺(現在の大阪府)を見物されておりました。
その後、京都におられる信長様にご挨拶へ向かわれる予定で、堺から京へ上洛する途中にて、本能寺の変の知らせを聞いたとされております。

本能寺信長廟(本能寺の位置は当時から移転しています)

家康様に危機を知らせた人物とは、京都の豪商、茶屋四郎次郎(ちゃや しろうじろう)殿。「どうする家康」では中村勘九郎様が演じられるそうです。
茶屋殿から、父上(明智光秀)の謀反、信長様のお討死の知らせを聞いた家康様は、大変慌てられたそうです。

この時、家康様の元には、酒井忠次様、榊原康政様、本多忠勝様、井伊直政様らを筆頭に、石川数正様や服部半蔵殿ら、総勢34名ほどしかおらず、このわずかな手勢で、この危機を逃れられるのか?
明智軍は1万3000とも聞く、織田家と同盟国である徳川が狙われないわけがない!
一揆の襲撃や、落ち武者狩りもある、これは逃げ切れない! と、京都の知恩院にて自刃も考えられたそうですが、本多忠勝様の説得により家康様は自刃を改め、三河国への帰還を決意されたそうです。
(家康様は何度か自刃騒ぎをおこしています)

そんな中、家康様たちとは別行動をされた方がおります。穴山梅雪様です。
梅雪様は、家康様を脱出させるため二組に分かれ、一行の殿(しんがり)を務めたそうです。
一日遅れで、家康様と同じ道筋で帰ろうとされていたところを一揆に襲われ、飯岡の渡しで亡くなられたそうです。

ただ、梅雪様の行動や亡くなられ方については諸説ございます。
家康様を疑い、自身の身の危険を感じ別行動を取ったところを、落ち武者狩りにあい落命されたとする説。
別行動をとったのち、父上(光秀)からの家康追討の命を受けた一揆勢により、家康様だと間違われ殺害されたとする説。
家康様一行から遅れて移動していたところを、執拗な落ち武者狩りにあい、殺害されたとする説。
家康様と共に畿内を脱しようとしますが、一揆の襲撃を受けて自刃、または殺害されたとする説。
さらには、家康様によって殺害されたという説もございます。
謎は深まるばかり……どうする家康では、どのように描かれるのでしょうか?

さらに伊賀越えの際に、茶屋殿や梅雪様の他にも家康様に協力された人物がおりました。
忍者として、とてもとても有名な、服部半蔵殿です。半蔵殿は、服部正成(はっとりまさなり)殿と申し、父親の時代から、松平(徳川)家に仕えていたとされております。
忍者の印象が強いお方ですが、徳川家の武将の一人です。ただ、いくつかの合戦において、伊賀や甲賀の忍と行動を共にしたり、また指揮官として忍を使い、探査や工作をさせた記録も残っているそうです。

そして伊賀越えの際、父上の出身が伊賀である半蔵殿は茶屋殿と共に、伊賀や甲賀の土豪と交渉します(銀子=銀貨も使用したとのこと)。
彼らを武装させ、家康様らを守らせることで、安全に通行させることに成功したそうです。

ただ、半蔵殿自身は伊賀越えの最中、死のふちをさまようことに。
家康様を守るため、道を開けるよう一揆に叫ばれたり、応戦する中で堀に落ちてしまい、十箇所近くを槍で突かれてしまったそうです。
気を失った半蔵殿を見て、家臣が討ち死にされたと家康様に伝えますが、亡骸を回収しようと戻ったところ、なんと息があったそうです。半蔵殿を介抱しながら、共に帰ったと伝わっております。
このお話を聞くだけでも、伊賀越えの恐ろしさを感じますね。

その後、この伊賀越えの際に協力した者達を家康様が召し抱え、半蔵殿はその伊賀同心の頭領に。
さらに茶屋殿は、家康様お抱えの御用商人となったそうです。

そんな「神君伊賀越え」ですが、京田辺市の草内(くさうち)の渡しを通り、伊賀越えを決行したというお話がございます。
家康様一行が通った渡しの候補地は、飯岡の渡し(京田辺市)・草内の渡し(京田辺市)・山田の渡し(精華町)の、三か所とされているそうですが、その中でも草内の渡しを通った説が有力だと伝わります。

家康様一行は、宇治田原城主の山口甚介殿の助けを受け、無事に通過することができたそうです。
交通の要所である、宇治田原。その入口、郷之口に山口城(宇治田原城)があります。この城は信長様の命で築城されました。山口甚介殿は家康様らが向かっていることを知り、配下を向かわせたそうです。
ともあれ家康様一行は何とか対岸へ渡り、山口甚介殿の待つ山口城へと向かったそうです。

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木津川で船を渡し終えたときのこと。
忠勝様が、渡し終えた船の船底を槍で突き破壊したそうです。追手が船を使用するのを防ぐため行ったとのこと。豪快な印象のある忠勝様ですが、冷静な判断と用心深さも兼ね備えていたのですね。
さすが戦上手。頼りになります。

木津川の渡しがあるこの草内は「くさじ」または「くさち」と呼ばれていたそうですが、現在は「くさうち」と呼ばれています。

京田辺市にまつわる神君伊賀越えのお話はここまでとなりますが、このあと家康様一行は伊賀を越え、無事に岡崎城へ帰城されます。
(岡崎城までの帰還ルートは諸説あるようです)

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家康様の人生の中でもとても危険な体験だったと伝わる、神君伊賀越え。
そのゆかりの地である京田辺市では、ただいま「京田辺伊賀越えスタンプラリー」が開催中です!  

news.kojodan.jp

市内に八カ所ある、伊賀越えゆかりの地を巡るスタンプラリーとなっております。
すべてのスタンプを集めると全員に、京田辺玉露ティーパックと抹茶ぼーるちょこ、京田辺家康公伊賀越えオリジナルクリアファイルを進呈。
京たなべ玉露庵(京田辺市観光案内所)にていただけます。
さらに、ガチャガチャで当たりが出ますと、徳川軍旗スポーツタオルもいただけるとのことで、盛りだくさんです。

次回はスタンプラリーの様子をレポートさせていただきます。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました!
皆様も是非、京田辺市にて神君伊賀越えを体感してみてくださいませ。

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