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【家康の謎】家康はなぜ「家」の字を選んだの?

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榎本秋の家康の謎

徳川家康は元服当初「松平元信」を名乗ったが、これを「元康」と改名した。そして、今川氏と決別した後の1563年(永禄6年)に、「元」の字の方も変えてしまって「家康」を名乗るに至ったのである。
元康の「元」の字は今川義元からもらったもの(偏諱)であり、松平と今川の強い関係を示すものだ。その偏諱の文字を捨てるというのは両者の決別を示すものだ――というのが通説的理解だ。

では新しく選んだ「家」の字は何に由来するのか。
それは「八幡太郎」こと源義家である、というのが知られている説だ。義家は平安時代後期に起きた前九年の役・後三年の役の頃に活躍した武士で、源氏が東国において「武家の棟梁」と認められるにあたって大いに貢献した人物のひとりである。
なるほど、のちに征夷大将軍となる家康の名前の由来としては説得力がありすぎるくらいだ。

ただ近年、これらとはまた違う面白い説が提唱されている。
まず、「元」の字を捨てたことにさほどの意味は無かったのでは、という考え方だ。証拠として、鳥居元忠や松平真乗(まつだいら さねのり)らは義元の「元」や氏真の「真」を偏諱でもらったと推測されるが、松平が今川から離反しても名前を捨てた様子がない。確かに、江戸時代になると敵対したから偏諱でもらった文字を捨てるという価値観も出てくるが、この時代にはそのような考え方はなかったのではないか……というわけだ。

となると「元」を捨てたかったのではなく、「家」を取り入れたかったのではないか、という話になる。
ではその「家」はどこから来たのか。実は本コラムで以前扱った家康の母・於大の方の再婚相手である久松俊勝(ひさまつ としかつ)が、この頃「久松長家」を名乗っていた。家康はこの長家を父とみなし、偏諱として「家」の一字をもらったのではないか、というのである。

この考え方では、長家がのちに名を変えたのは義理の息子的存在である家康があまりにも格上の存在になりすぎて自分の名前を名乗ってもらうことを恐れ多く感じたからということになる。
また、のちにこの話が語られなくなったのは、徳川将軍家の通字として意味合いが大きくなりすぎた「家」の字が、久松家由来であると都合が悪かった、というわけだ。

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