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【家康の謎】家康は何回名前を変えてるの?

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榎本秋の家康の謎

現代日本人は普通、生涯においてひとつの名を使い続ける。ここで言う「名」は「姓名」と言った時の「名」、俗に言うところの「下の名前」のことだ。
自分が所属する家(この感覚も現代日本人にはもう希薄かもしれない)を指し示す「姓」、上の名前は結婚や養子入りなどで変わる可能性がそれなりにある。しかし、個人を識別する名については、特に事情のある人が家庭裁判所に申し出をして認められた上で役所に届け出なければいけない。
だが、武士はそうではなかった。生涯の中で何度も変えるケースが珍しくなかったのである。

まず、幼名がある。生まれてから元服して一人前と認められるまで使う名前だ。1542年(天文11年)に松平広忠(まつだいら ひろただ)の子として岡崎に生まれた家康は、「竹千代」と名付けられた。ドラマなどの影響もあって、下手をすると日本で一番有名な幼名ではないか。
これはそもそも松平の家で使われていた幼名であったようだが、家康以後は神君の幼名として重みが加わったのか、徳川将軍家で定番の幼名になり、二代・秀忠、三代・家光、四代・家綱(いえつな)、十代・家治(いえはる)などに付けられている。

元服したのは1555年(弘治元年)のことだ。この時名乗ったのは「次郎三郎元信(じろうさぶろう もとのぶ)」。「次郎三郎」は通称(仮名(けみょう))で、「元信」が諱(いみな=本名)である。当時の習慣として諱は滅多に使わず、一般的には通称あるいは官名(かんめい)及びそれを模した百官名(ひゃっかんな)で呼び合う。
家康の最初の諱、「元信」には重要な意味がある。当時の松平氏は今川氏の影響下にあり、元服当時の家康は今川氏の本拠地・駿府にいた。
そんな家康に、今川氏の当主である今川義元が自分の名前のうち一字、「元」を分け与えたのである。これを「偏諱(へんき)を賜う」という。主君から偏諱を賜うのは名誉なことであり、ある種の褒美でもあったはずだ。有名なところでは、のちの室町幕府初代将軍・足利尊氏のケースがある。彼は元々「高氏」という名前であったのが、鎌倉幕府打倒に活躍した際、これを喜んだ後醍醐天皇の諱である「尊治(たかはる)」から一字をもらい、尊氏と名乗るようになったのだ。

その後、家康は1557年(弘治3年)から翌年(弘治4年)の間のどこかで「元康(もとやす)」と名前を変えた。
この「康」は祖父・清康(きよやす)から一字をもらったものと考えるのが現在の通説である。間も無く家康は三河・尾張方面における今川氏の重要人物としての地位を占めるようになっていくので、そのための箔付けとして偉大な祖父の名を借りたのだろうか。
なお「通字(とおりじ)」といってひとつの文字を先祖代々継承して名前に付けていく風習があるが、松平氏の通字はどちらかというと「忠」のようで「康」はあまり見つけられない。

そして最後に名前を変えたのが1563年(永禄6年)である。
この3年前に桶狭間の戦いで今川義元が討死し、嫡男の氏真が跡を継義はしたものの、今川氏内部に少なからず混乱が起きた。
その中で家康は今川氏から離反して独立大名の道を進み、ついにこの年、「元」の一字を捨て「家康」と名乗ったのである(「家」の一字は伝説的な源氏武者である八幡太郎こと源義家にルーツがあるともされるが、はっきりしない)。名前にはその人の人生と立場が現れるのだ。

なお、諱の変更について手続きが必要だったかどうかはよくわからない。
公家については文書による正式な手続きが必要であり、江戸時代になっても天皇・朝廷の専権事項として残ったことがわかっている。また、幕末の広島藩で、幕府に改名の許可をもらっていたことを示す史料もある。
戦国時代の武士にそこまで明確なルールがあったとはちょっと思えないが、一族の本家や主君への許可は取っていたのではないか。それらを無視して改名するのは独立性の高い勢力であるか、あるいは本家や主君へ反逆する強い意志をもって行なったと考えるべきではないだろうか。家康のケースはまさにそれである。

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