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【家康の謎】家康の趣味は鷹狩らしいけど、なぜ鷹狩をするの?

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榎本秋の家康の謎

徳川家康は学問・剣術・薬学と、非常に多趣味・多芸の人として有名だ。その中でもよく知られているのが鷹狩である。
鷹狩と言っても、鷹「を」狩るのではない。鷹「で」狩る、日本古来のスポーツだ。
猛禽類(鷹以外にも鷲や隼なども使う)を育てたり馴らしたりして、人間の命令を聞くようにし、小動物や鳥などの獲物を捕獲させる。これを専門的に行う職人を鷹匠と呼ぶ。

ルーツはハッキリしないが、おそらくは遥かな古代に中央アジアの遊牧民たちの編み出した技が広まったものであろう。
一方、日本で初めて行われたときについては明確に記録に残っている。『日本書紀』によれば仁徳天皇四十三年、百済の王孫・酒君が調教した鷹が献上され、天皇がこれを用いて鷹狩を行った、という。
のちに鷹狩は天皇をはじめとする貴族の楽しみとして独占され、高い身分のものたちの象徴になった(誰もが頻繁に行うようでは獲物がいなくなるという事情もあったろう)。ただ一方で仏教が禁じる殺生でもあったため、しばしば信仰心の強い天皇によって禁止されることもあったようだ。

鎌倉時代には源頼朝によって公には禁止されていたが地方では盛んに行われており、特に南北朝から室町時代にかけて大いに流行った。
戦国大名・戦国武将たちは多くが鷹狩を好み、その筆頭が家康である。
さて、家康をはじめとして鷹狩を好んだ大名や武将たちであるが、何が彼らをして熱中せしめたのだろうか。よく言われるのは、単なる趣味を超えた実利的な意味合いがあった、ということである。

まずは軍事訓練としての鷹狩だ。そもそも、古代の大和朝廷において、当初鷹狩は軍事を司る兵部省の管轄にあった(のちに民部省、蔵人省へ)。これは獲物を追い、殺すのが特殊技術であったことに加え、指導者が指揮する団体行動という点で狩猟と合戦は同列の仕事であったためだ。
この考え方は戦国時代にも継承され、軍事訓練の一種としての鷹狩、あるいは鹿狩(鹿や猪などの大型獣をターゲットにした狩。より大規模で軍事訓練としての意味合いが強い)などが行われたらしい。加えて家康は自分自身が野山を走り回って体を鍛えるための手段としても見なしていたようで、『徳川実紀』の中で「太平の時代にこそ狩猟によって体を鍛えろ」といった意味のことを書いている。

またもう一つ、鷹狩には領地を隅々まで見て回り、大名家の支配を行き渡らせるという側面もあったとされる。
家康は出かけた先で庶民の不満や土地の事情を聞き、特には悪質な代官を首にするようなこともあった。
その一方で、鷹狩の役人たちが威圧的に振る舞っているという苦情に対しては「むしろその方が庶民が幕府に対して怯え、一揆など起こす気もなくなる」と言った、という。
硬軟両面で民衆と接するための手段であったわけだ。

ただ、これらの鷹狩の美点・利点について、「ただの後付けである」という主張も根強いことは見逃せない。
つまり、鷹狩(他の狩猟も)は家康のような愛好者にとってまず第一に楽しい趣味であって、これに興じる理由づけとして「軍事訓練である」「庶民の様子を見て回るのだ」と言い訳をしたのではないか、というわけだ。
紹介した二つの利点についても、別に家康が初めて主張したのではなく、古来から言われていたことである点も、後付け説にそれなりの説得力を感じさせる。

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