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【家康の謎】家康はなぜ三方ヶ原の戦いで戦ったのか?

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榎本秋の家康の謎

1573年(元亀4年)、武田信玄の軍勢が徳川領への侵攻を開始した。
この戦いは信玄がいわゆる「信長包囲網」の一翼を担うべく、織田の同盟者である徳川を攻撃したものとして理解されている。
しかしそもそも徳川(および織田)と武田は美濃や遠江を介して武田領国と接していた。また、かつて家康は対今川・対北条で武田と手を組んだことがあるのだが、約束を破って今川・北条に融和的な姿勢を示したということもあった。
つまり、徳川と武田はそもそも戦わざるを得ない関係であったのである。

この時、2万5千と呼ばれる軍勢を率いて遠江へ入った信玄は、浜松城の西北へ広がる三方原の台地を西へ悠々進んだ。
対する家康の軍勢はもともとの手勢が8千、信長の援軍が3千と、兵力では明らかに不利だった。
しかし逆に言えば、武田軍は浜松城を攻撃しようとはしなかったので、家康が単に自らの保身だけを願うなら、単に籠城すればよかったと言える。にもかかわらず、家康は自ら城を出て出陣し、武田軍への攻撃を仕掛けた。
こうして三方原の戦いが始まったのである。

どうして家康は無謀とも思える出陣を決断したのだろうか。
ひとつは、信玄をただ素通りにしては同盟者・信長への面目が立たない、ということがあったろう。そしてもうひとつ、家臣や国衆への面目も大きな問題であったはずだ。戦国大名は絶対的な君主ではなく、支配下の武士たちが抱える土地と人民を保護しなければ上に立つ存在と見なしてもらえない。
もし家康が己の一人の命だけを守ろうとすれば、間違いなく三河や遠江の国衆が離反し、せっかく築き上げた徳川領国は崩壊へ向かったろう。

つまり、家康としてはなんとしても「武田に立ち向かう」という姿勢を見せなければいけなかったのである。
現代的価値観で言えば面目のために死地へ向かうのは愚かな振る舞いに思えるかもしれない。しかし、戦国乱世においては、命よりも面目が大事な時というのは確かにあったのだ。

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