攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

十八松平(じゅうはちまつだいら)」という言葉をご存知だろうか。これは家康以前に分かれた松平一族のことを指しているとされるが、実は厳密に数えて十八家あったというわけではないようで、「枩(松の異体字)を分解すると十八公になる」のが由縁だ。日本の神々を八百万と数えるようなものと思えばわかりやすいだろう。

一方、「十四松平(じゅうしまつだいら)」という呼び方もあり、こちらは一応実態がある。家康以前に存在した松平一族諸家のうち、江戸時代に残っていた十四の家を数えているからだ(大名になった十四家であるというが、実際には一万石に満たない家も含まれている)。
なおこの数え方をする時、家康つまり徳川将軍家につながる安城(あんじょう)松平家や、本貫の地に残った松平郷(まつだいらごう)松平家、実は松平宗家であった岩津(いわつ)松平家は数えない。
そう、実は安城松平家は宗家ではなかったのである。では、どのようにして安城松平家が宗家となり、家康の出現につながっていったのか? その流れを見てみよう。

初代親氏、二代泰親、三代信光

徳川(松平)のルーツは、源義家の孫・新田義重(にった よししげ)の四男・義季(よしすえ)だという。彼が上野国新田荘世良田郷徳川村に腰を落ち着け、「得川四郎(とくがわ しろう)」を名乗った。
この次男の世良田弥四郎頼氏(せらだ やしろう よりうじ)の末裔が家康へつながっていくとされる。その子孫である有親(ありちか)と親氏(ちかうじ)の親子が室町幕府によって上野から追い払われてしまい、僧侶として各地を放浪した。

親氏は三河国加茂郡松平郷の土豪のもとへ流れ着き、入り婿になって「松平太郎左衛門尉」を名乗った。松平氏初代、「松平親氏」である。
……以上は徳川幕府の公式アナウンスで、実際にはちょっと信用できない。家康自身は「自分は新田氏の末裔である」と信じていたが、根拠はなかったという。そもそも松平氏の家系図は(当時の武士の家系図そのものが「そう」なのかもしれないが)かなり怪しい。『寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)』の編集に際してはおそらく各家からの聞き取りでまとめたのだろうが、「どうもこれは法名が間違って伝えられたのでは?」と思われるものがあったりする。

二代泰親(やすちか)の時、松平郷から岩津へ進出した。そのため、岩津松平がもともとの松平宗家ということになる。泰親は親氏の子だとされるが、実際には弟だったと考えられている。この泰親の子の益親(ますちか)が上京して日野浦松家に仕え、京都とのパイプになったらしい。また、おそらく泰親の時代に伊勢氏と主従の関係を結んでいる(被官になったのは次代から)。

三代信光(のぶみつ)は親氏の次男(長男の信広(のぶひろ)は松平郷を継承した)で、彼の時代に額田郡の地侍の一揆を鎮圧した事件をきっかけに矢作川を越え、西三河へ進出。西三河の三分の一を支配した。子供が四十八人いたとされる。
ここから分かれたうち、十四松平に数えられるのが、
・竹谷(たけのや)…長男守家(もりいえ)の家系とされる。宝飯郡、蒲郡市
・形原(かたのはら)…4男与副(ともすけ)あるいは与嗣(ともつぐ)の家系。実際には岡崎松平の庶流とも。宝飯郡、蒲郡市
・岡崎(おかざき)…5男光重(みつしげ)の家系とされる。のちに大草(おおくさ)。渥美郡、田原町
・五井(ごい)…7男元芳(もとよし。忠景(ただかげ)とも)の家系とされる。宝飯郡、蒲郡市
・深溝(ふこうず)…五井松平から分かれた家系とされる。歴史史料として広く知られている『家忠日記』の著者・松平家忠(いえただ)の家系。額田郡、幸田町
・能見(のみ)…8男光親(みつちか)の家系とされるが、実際には岡崎松平の庶流とも。額田郡、岡崎市
・長沢(ながさわ)…長男あるいは8男という親則(ちかのり)の家系。宝飯郡、音羽町
である。

なお、この三代信光の子供たちの順番について『寛永諸家系図伝』は竹谷、安城、形原、大草、五井、能見であるとしている。しかしこの兄弟順について、「編纂当時の当主たちの名前の順番をもとに、編纂時に決めたのでは?」という説がある。長男とされる竹谷松平の当時の当主が「与二郎」で、次男とされる安城松平の当主である家康が「次郎三郎」で……」という具合だ。もしその通りなら恐ろしい雑さだが、兄弟順についての根拠がなかったのであれば仕方のなかったのかもしれない。

四代親忠、五代長忠

四代親忠(ちかただ)は信光の三男あるいは四男で、父が攻略した安城城を与えられて安城松平の祖になった。この時点で松平の本家は岩津松平(継承したのは信光の嫡男・親長(ちかなが))で、安城松平は庶家にすぎない。親忠を四代目にするのは後付けの理屈。「親忠の頃から主家として認められ始めていた」という説もあるが、実際には有力な庶家のひとつにすぎなかったろう。
ここから分かれたうち、十四松平に数えられるのが、
・大給(おぎゅう)…次男・乗元(のりもと)の家系とされる。元々は松平一族ではなかったとも。加茂郡、豊田市
・滝脇(たきわき)…9男・乗清(のりきよ)の家系とされるが、実際は大給松平の支流と考えられる。加茂郡、豊田市
である。

五代長忠(あるいは長親(ながちか))は親忠の子。彼の時代、今川の客将である伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が岩津松平を攻めるという大事件が起きている。この時に岩津城が攻められているということ自体が「つまり攻撃ターゲットの岩津松平こそが本家だったのでは?」と考えられている。

この戦いがもたらしたものは大きかった。
岩津松平家の、親長の系統の血筋が数多く討死してしまった。結果として宗家の力が失われ、安城松平家が宗家扱いになっていったし、パワーバランスが安城松平へ偏ったのではないだろうか。
ここから分かれたうち、十四松平に数えられるのが、
・福釜(ふかま)…次男・親盛(ちかもり)の家系とされる。碧海郡、安城市
・桜井(さくらい)…3男・信定(のぶさだ)の家系とされる。安城庶流の中でも筆頭とされる。碧海郡、安城市
・東条(とうじょう)…4男・義春(よしはる)の家系とされる。宝飯郡?
・藤井(ふじい)…5男・利長(としなが)の家系とされる。形原松平の庶流の可能性も。碧海郡、安城市
である。

なお、今川の攻撃を受けた岩津松平家がどうなったのかはよくわからない。「この戦いで滅んで、末裔や後継者は不明ともいう」し、「宝永年間に御家人になった」という話もある。「御家人の家系が残り、幕末に蝦夷共和国の副総裁をつとめた松平太郎が末裔とされるが怪しい」という話もある。

六代信忠、七代清康

六代信忠(のぶただ)は暗愚だったので、まだ幼い七代・清康(きよやす)に家督を継承したという。ただこれも本当に暗愚だったのかはよくわからず、実は松平一族によるプレッシャーがあったのではないか、という説もある。
ここから分かれたうち、十四松平に数えられるのが、
・三木(三つ木。みつぎ)…次男・信孝(のぶたか)の家系。なお信孝は甥の広忠よりも勢力を伸ばすのではと疑われ、殺された。碧海郡、岡崎市
である。

七代清康の時に松平氏が躍進したのはあまりにも有名だ。彼はライバルである岡崎松平を倒し、岡崎城を奪ったので、以後は安城松平を岡崎松平と呼ぶことが多い。
なお、のちに本来の岡崎松平の庶流が子孫を名乗り、大草松平と呼ばれた。

清康は「世良田二郎三郎清康」を名乗った。「世良田郷(せらだごう)」がルーツである。このような名乗りをする必要があったのは、「足利の名門である今川に対抗する必要があったから」ではないかという説があり、説得力がある。
その中でもなぜ世良田氏を選んだのかといえば、「世良田弥四郎頼氏」が三河守だったからで、清康は「新田一族で大館氏(おおだてし/おおだちし)の流れとされる酒井氏あるいは成瀬氏が持っていた新田の系図を見てそれを発見したのではないか」と考えられている。
一方、通称の次郎三郎の方については、「三代信光は親氏の次男なので、岩津松平家は「次郎家」と呼ばれた。そこから分かれた親忠は三男なので、安祥松平は「次郎三郎家」になった。次郎三郎の名乗りはここからきている」という説がある。

こうして代を経るごとに広がっていった松平一族だが、十四松平の発展と分布については「矢作川流域に広がっていった」という説がある。
地図で見ると、岩津松平から派生した松平一族がどちらかというと矢作川から離れがちなのに対して、安城松平から派生した一族は矢作川流域に留まっている印象がある。そうすると「松平は矢作川流域に展開」よりも「安城松平系は矢作川流域に展開」なのかもしれない。

その後の各松平家

最後に、十四松平(および松平郷松平)は戦国乱世を生き残った後、それぞれどうなったのか。簡単ながら紹介したい。

松平郷松平は初代の信広の後におそらく断絶し、岩津松平の一族から迎え入れて復興。松平郷440石を代々受け継いだ。

竹谷松平は三河吉田藩3万石になったが跡継ぎなく廃絶され、庶流が5000石で残った。

形原松平は元和年間に加増されて1万石になり、最後には丹波国亀山藩5万石になった。

大草松平は三河一向一揆に加担したせいで一度所領を奪われてしまうが、松平康安(やすやす)の時に家康の嫡男・信康の家臣として復帰する。しかしこの家系は家光の弟・忠長付きになった際で連座して所領を没収されてしまい、今度は水戸徳川の家臣になるも最後には後継なく断絶ということになった。

五井松平は天正年間の関東入部の時に下総国印旛郡2000石、のちに5500石になって代々受け継いだ。

深溝松平は三河吉田藩3万石を与えられたあと、最後には肥前島原藩7万石になった。
能見松平の本家は千石に満たない旗本に終わったが、庶流が松平忠輝の家老を務めて2万石をもらい、忠輝の改易後も大名として残った。最後には豊後杵築藩3万2千石になっている。

長沢松平は武蔵深谷に1万石を与えられたものの、家康の子の忠輝を養子として受け入れて60万石となったところ、その忠輝が改易処分を受ける。復興は最終的に八代将軍吉宗の時に許され、300石相当の土地を与えられた。

大給松平は松平一族の中でも大きな兵力を持っており、家康にも重視されていたようだ。慶長年間に美濃岩村藩2万石をもらった後、老中を度々出し、最終的には三河西尾藩6万石だった。他に分家として美濃岩村藩3万石、豊後府内2万石、信濃田野口藩1万6千石があった。

滝脇松平は慶長年間に滝脇村などにもらった6千石を代々継承した。

福釜松平は天正年間に領地をもらい、1100石を継承した。

桜井松平は清康が死んだ際に遺児の広忠を岡崎城から追い出したり、三河一向一揆でも家康に反旗を翻すなど、本家に敵対的な家と言える。しかし降伏して許された。慶長年間に遠江浜松藩5万石を与えられたものの、当時の当主が水野忠胤(みずの ただたね)の屋敷での宴に参加した際、口論から刺し殺されて所領没収の憂き目にあった。その遺児が5千石を与えられて再興すると、最終的に摂津尼崎4万石になっている。

東条松平は当主が後継のいないまま亡くなったので、家康の4男・忠吉(ただよし)が後を継いだ。この忠吉も後継のないまま死んだので家名としては絶えたが、領地および家臣団の多くは尾張藩の徳川義直へ引き継がれた。

藤井松平については、家康と同じ時代の松平信一(まつだいら のぶかず)が武将として活躍し、信長から桐紋の羽織を与えられて家紋も桐にしたとか、信長の名をもらって「信一」と名乗ったともいう。慶長年間に常陸土浦藩3万5千石を与えられる。この家系は老中・松平信之(まつだいら のぶゆき)も出して下総古河藩9万石まで出世したが、信之の嫡男が発狂して所領没収となる。家としては信吉の弟が備中庭瀬藩3万石を与えられて存続し、出羽国上山藩3万石として残った。また庶流として信濃上田藩3万石がある。

三木松平は天正年間に後継なく断絶したが、当主の弟が新たに家を興し、500石の家として残った。

榎本先生と対談

攻城団テレビでこのテーマでの対談番組を収録しました。あわせてご覧ください!

感想もお待ちしています。

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する