攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

三河 の検索結果:

【現在1754城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

… 本證寺城 御城印 三河一向一揆 本證寺城(愛知県安城市) 本證寺、愛知県国際展示場 300円 印刷 A6 2023年3月18日 烏山城 御城印 烏山和紙版 烏山城(栃木県那須烏山市) 小森武夫酒店 350円 印刷 はがき大 2023年3月14日 大阪城 登閣証 通年販売版 大阪城(大阪府大阪市) 大阪城天守 300円 印刷 A6 2023年3月13日 高越城 御城印 高越城(岡山県井原市) 井原市観光協会事務局、井原市観光案内所、井原市文化財センター「古代まほろば館」 30…

【家康の謎】徳川家康はなぜ天下を取れたのか?

…の時に注目されるのが三河武士団、すなわち譜代の家臣団の存在である。家康は幼少期を三河から離れて暮らしたわけだが、そのときに三河を守っていたのが彼らだった。松平(徳川)が独立した後は家康を支える基盤となって数々の戦いに加わり、その勇猛さと何よりも忠誠心によって名を馳せた。江戸幕府が開かれた後は各地の譜代大名および旗本・御家人として幕府を取り仕切り、約二百五十年の太平を支えたのである……。 こちらの通説についても「正直怪しい」というのが実際のところであるし、大河ドラマ「どうする家…

【家康の謎】家康の辞世の句は? 家康の遺訓は本物か?

…エピソードではある。 では、実際に記録として残っている、家康の遺言はどんなものだったのか。亡くなるだいたい2週間前の4月4日、家康がブレーンの金地院崇伝に以下のように伝えた、という記録が残っている。曰く、「遺体は駿河の久能山へ」「葬儀は江戸の増上寺で」「位牌は三河の大樹寺へ」「一周忌が終わったら、下野の日光に小さなお堂をたて、関八州の鎮守にする」――残念ながら、あまりドラマチックなものではなく、伝えているのは自分の死後処理ばかりである。やはり現実的にはこんなところなのだろう。

【家康の謎】家康の領地の石高はどのくらいあった?

…ともと影響力の強い西三河を、続いて今川氏の勢力が衰えて混乱状態になっていた東三河を支配下に収め、三河統一を果たす。太閤検地によると三河は29万石。このくらいになると立派な大名と言ってよかろうが、西に隣接する織田信長の尾張は57万石だというから、正面向かって立ち向かうのは難しそうだ。家康が旧主君の今川を見限り、織田の同盟者となったのには、こういう数字の都合もあったのかもしれない。 続いて家康はその旧主君の今川を甲斐の武田と同時期に攻め、遠江26万石を得た。やがて武田と対立状態に…

【家康の謎】家康はどうして関東に行かされたの?

…に逆らえず、泣く泣く三河をはじめとする東海地方から離れ、関東へ移ったと言われている。ではどうしてそのような辛い目に遭わなければいけなかったのかといえば、「秀吉による嫌がらせ」「危険な存在である家康を遠くへ追いやり、その力を削ることが目的だった」――というのが、広く知られた説であろう。 ただ、近年の研究では、この「秀吉の命令によって無理やり移された徳川家臣団」という見方は間違っている、と考えられている。もちろん、豊臣政権の命令であるため逆らえないことは前提にあったろうが、徳川側…

【家康の謎】三河譜代ってなに?

…もしばしば出てくる「三河譜代」というワードを掘り下げてみたい。 そもそも「譜代」というのはどういう意味か。元々の言葉としては「代々その主家に仕えること。また、その臣下」(『広辞苑』第五版)という一般名詞である。ただ、江戸時代に限定すると、この言葉にはもっと特別な意味が出てくる。つまり「譜代大名」の譜代だ。江戸時代の大名(いわゆる徳川大名、もしくは近世大名)は、大きく分けて三つあったとされる。すなわち、親藩大名、譜代大名、外様大名だ。このうち、親藩大名はざっくりいえば家康の「親…

【家康の謎】家康はなぜ上田城の戦いで自ら出陣しなかったのか?

…とだ。父祖の地である三河どころか、駿河・遠江、さらには甲斐・信濃にまで手を伸ばしている。兵力も、それを率いる家臣もかつてとは比べ物にならないほどだ。信長だって、その後期には各地へ方面軍を派遣して戦わせている。家康だって、個々の戦いは家臣に任せようと考えたとしても、おかしいことではない。 もうひとつは、この頃の家康は軽々しく動くわけにはいかなかったということがある。前年の小牧・長久手の戦いはとりあえず和睦で終わったが、秀吉との関係は改善されていない。いつ秀吉が攻めてくるかわから…

【家康の謎】家康は武術の達人だったの?

…るのである。例えば『三河物語』では家康が「身分の高い人は周囲を守られているのだから、斬られて避ける術は必要だが、自分から斬りかかる必要はない」(意訳)と語ったとされているし、『玉音抄(ぎょくおんしょう)』という史料にも似たような言葉が収録されている。ちなみに、同じ史料では武術に傾倒する息子の秀忠に対して「接近戦をするのは匹夫の勇に過ぎない」(意訳)と教え諭したともいう。 また、馬術においてもこの精神を感じさせるエピソードがある。小田原征伐の際、川を渡ることになった。家康はこの…

攻城団テレビで「家康はなぜ名字を松平から徳川に変えたのか」という話をしました

…は、このときの目的が三河守叙任であったこと、足利将軍家が将軍不在とはいえ健在しているので源姓を名乗るのははばかられたことなどが背景か。あと藤原氏の氏の長者である近衛前久的に調整しやすかった? ともあれ新田氏→得川氏から藤原氏に分かれた家の子孫という体で通す 源姓を名乗るのはいつか。従来説は征夷大将軍に任官される少し前(慶長年間)と考えられていたが、笠谷先生によればもっと早くおそらく天正16年の聚楽第行幸の頃、その直前に足利義昭が鞆から京に戻って出家して源氏長者としての足利氏が…

【家康の謎】家康のブレーンにはどんな人たちがいたの?

…い人材だった。家康も三河時代から多くの僧侶と交流を持って彼らをブレーンとして活躍させたと思われるが、特に家康のブレーンとして名前を知られているのが南光坊天海(なんこうぼう てんかい)と金地院崇伝(こんちいん すうでん、以心崇伝)である。 天海は天台宗の僧侶で、高徳の人物としてよく知られていた。しかし、家康に見出されるまで、その前半生はよくわかっていない。そこから生まれたのが有名な「光秀=天海説」である。他にも将軍落胤説などもあるが、真相はわからない。間違いないのは、彼が足利学…

【家康の謎】家康は信長の姉妹を娶ったのか?

…を「信長の義弟である三河の国主」と書いているのである。この時代の三河国主が家康のことなのは間違いない。では「信長の義弟」とは? 家康の正室、築山殿は(この時点では死んでいるが)信長とはなんの関係もない。家康の姉や妹が信長に嫁いだなどという話も聞いたことがない。他にどんな要素によって家康が信長の義弟になるなどと言うことが考えられるだろうか? ここからのどんでん返しで「(一時的にでも)お市が家康に嫁いでいたのではないか」と考えられなくもないのではないか。……いや、我ながら非常に苦…

攻城団テレビで忍者の話をしました

…かと」や、本多正信の三河より追放されたけど、遠江からは追放されてないという屁理屈も最高でした。 そんな「どうする家康」で「忍者考証」を担当されている三重大学人文学部の山田雄司先生と、「ぶらり徳川家康の城跡+忍びめぐり」(マコト出版)を編集された佐藤強志さんをゲストにお招きして、忍者についてお話を伺いました。 www.youtube.com すでにレギュラー化している榎本先生を別にすれば、攻城団テレビ初のゲスト収録回となります(生配信ではたかまる。さんにも出演いただいたので)。…

【家康の謎】家康はなぜ伊賀越えしたのか、他のルートはなかったのか?

…世「三大危機」として三河一向一揆と三方ヶ原の戦いと並べられることになった。 本能寺の変が起きた時、家康は堺にいた。安土城の信長に挨拶をした後、上方を見物していたのである。わずかな供(34人とされるが、大名の正式な行動だから数千人の兵を引き連れていただろうとも)だけを連れて孤立した家康は一時、「ゆかりの知恩院(浄土宗)で切腹する」とまで言い張ったが、本多忠勝に説得されて脱出を図ることになった。 この時、家康ら一行が伊賀を超えてのルートを選択したので、後世「神君伊賀越え」と呼ばれ…

【家康の謎】家康は戦に強かったの?

…てしまうのも無理がある。家康は三河一向一揆によって家臣団が切り崩されても、そこから立て直すことができた。武田信玄や勝頼らに圧されても、ギリギリのところで領土を守り、最終的な逆転に繋げた。また、羽柴秀吉(豊臣秀吉)とは小牧・長久手の戦いで互角以上の戦いを演じ、それは豊臣政権における優位(ひいてはのちの天下取り)に繋がった。このように、家康は決して戦に弱い武将ではなかったろうが、「強かった」かどうかと言われると「歴史の彼方のことであってよくわからない」というのが正直な答えである。

【家康の謎】いわゆる「三英傑」って誰が決めたの?

…の愛知は「尾張」と「三河」というそれぞれ別個の独立した地域であり、信長・秀吉と家康を同郷とみなす考え方がどうもなかったらしいのである。となると、三英傑という言葉・概念の発生が愛知県の誕生後――すなわち1872年(明治5年)に名古屋県と額田県(三河)が合併してから後のことと考えられる。実際、おそらく三英傑という言葉の初出であると考えられるのは、その7年後に刊行された水谷民彦『三傑年譜』という書物だ。その後、学者たちや財界人、文化人によって尾張・三河という本来独立していた地域を統…

【家康の謎】しかみ像っていつ描かれたの?

…高い資料どころか、『三河物語』のような軍記物にさえ、このエピソードが見当たらないのだ。さらに言えば、紀州徳川家から尾張徳川家へ伝わったこの絵は、明治時代頃には「長篠戦役図」、つまり長篠の戦いの頃の家康の絵だと考えられていたのである。これがのちに「徳川義直(家康の子で尾張藩祖)が描かせた」ものになり、三方ヶ原云々という話も入ってきて、ついに先ほど紹介したようなエピソードが形成された、と推測されている。 なお、脱糞のエピソードも後世の創作であろうと考えられている。こちらについては…

【家康の謎】家康が採った空城計ってなに?

…び攻めると、もう援軍が到着して今度こそ本当に罠があった……という。 しかし実際に家康が空城の計を仕掛けたかというと、どうも怪しいようだ。空城の計を連想させる描写は『改正三河後風土記』『四戦紀聞』と言った史料にあるのだが信ぴょう性が薄く、「武徳大成記」などの史料によると家康は城の外へ向けて鉄砲を撃たせることで追撃を防ぎ、また信玄の偽首を仕立てて「信玄を討ち取ったぞ」と嘘をつくことで城内の人心を安定させた――というのが実際の家康の策であったらしい。 blog.kojodan.jp

【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは

…を放浪した。 親氏は三河国加茂郡松平郷の土豪のもとへ流れ着き、入り婿になって「松平太郎左衛門尉」を名乗った。松平氏初代、「松平親氏」である。……以上は徳川幕府の公式アナウンスで、実際にはちょっと信用できない。家康自身は「自分は新田氏の末裔である」と信じていたが、根拠はなかったという。そもそも松平氏の家系図は(当時の武士の家系図そのものが「そう」なのかもしれないが)かなり怪しい。『寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)』の編集に際してはおそらく各家からの聞き取りでまとめたの…

細川玉子さんによる「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」レポート

…館】は、岡崎公園の“三河武士のやかた家康館”にございます。 岡崎公園には岡崎城がございまして、そちらまでは、名鉄東岡崎駅から徒歩15分ほどです。駅の改札を出ますと、階段に大きく大河ドラマ館のご案内が印刷されておりました。 そして観光案内所もあり、たくさんのリーフレットもございました。わたくしもいくつか頂戴させていただきました。 なお、家康様と背丈を比べられるパネルもあり、面白いなと思いました。 159cm……、玉子と変わりませんね😊(令和のわたくしは156cm程です) 岡崎の…

【家康の謎】家康はなぜ三方ヶ原の戦いで戦ったのか?

…地と人民を保護しなければ上に立つ存在と見なしてもらえない。もし家康が己の一人の命だけを守ろうとすれば、間違いなく三河や遠江の国衆が離反し、せっかく築き上げた徳川領国は崩壊へ向かったろう。 つまり、家康としてはなんとしても「武田に立ち向かう」という姿勢を見せなければいけなかったのである。現代的価値観で言えば面目のために死地へ向かうのは愚かな振る舞いに思えるかもしれない。しかし、戦国乱世においては、命よりも面目が大事な時というのは確かにあったのだ。 blog.kojodan.jp

【家康の謎】家康が信仰していたのは何宗?

…平氏の元々の菩提寺が三河の大樹寺であることはすでに触れたが、江戸で家康の、そして徳川氏の菩提寺となったのは増上寺――その宗派もまた浄土宗である。また、家康は遺言において「葬式は増上寺で、位牌は大樹寺に」と言い残している。自分の死は松平(徳川)代々の流れを汲んだ形で飾りたい、というのが家康の最後の望みであったわけだ。 なお、今紹介した家康の遺言は守られているが、同時に言い残していた「亡骸は久能山に」は守られていない。一度は埋葬されたものの、掘り起こされて日光山へ移されたのだ。天…

【家康の謎】家康はなぜ曳馬城を浜松城に改名したの?

三河を統一した家康は続いて東へ勢力を伸ばし、遠江一国を手中へ収めた。三河国主としての家康は先祖伝来の岡崎城を拠点にしていたが、領国が広がるとこれでは不便になる。結果、家康は新たな居城として浜松城を築いた。三方原台地の東南端に築かれた城で、家康は駿府へ移るまでこの土地を拠点とした。 しかし、家康はまったくイチから浜松城を築いたわけではない。この場所はもともと「曳馬(引馬。ひくま)」と呼ばれていて、曳馬城という城があった。最初の築城は15世紀、吉良氏の家臣だった巨海新左衛門尉(お…

【家康の謎】家康はなぜ「徳川」に改姓したの?

…(永禄9年)、家康は三河から今川氏勢力を駆逐し、三河を(一部の織田方の所領を除いて)おおむね統一することに成功した。そしてちょうどこの頃、関白・近衛前久(このえ さきひさ)を通して朝廷から従五位下(じゅごいのげ)・三河守(みかわのかみ)の官位をもらい、さらには「松平」から「徳川」へ改姓したのである。 では、家康はどうしてわざわざ苗字を改めたりしたのだろうか。これはかつて祖父・清康が対今川氏を見据えて「世良田(せらだ)」を名乗ったのに倣ったものであろうと考えられている。つまり「…

【家康の謎】家康は源氏なのか

…て各地を放浪した末に三河国加茂郡松平郷の土豪のもとへ流れ着き、入り婿になって「松平太郎左衛門尉」を名乗った。この人こそが松平初代、「松平親氏(まつだいら ちかうじ)」である、という。 しかし、この物語は非常に信憑性が低いことが今でははっきりわかっている。そもそも家康自身は「自分は新田氏の末裔である」と信じていたようだが、その証拠を見出すことができず、残念がっていたという話が伝わっている。また、17世紀半ばに松平氏によってまとめられた史料によると、確かに入り婿になった僧侶はいた…

たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…う記事もあったものの三河一向一揆がひとまとめになっていたり、そのまま紹介しづらいなと思い、Amazonで「カラー版 徳川家康の生涯と全合戦の謎99」 (かみゆ歴史編集部、イースト新書Q)を購入しました。この巻末に「徳川家康 合戦リスト」が掲載されています。 カラー版 徳川家康の生涯と全合戦の謎99 (イースト新書Q) ちなみにこの表で計算するなら「51戦33勝11敗7分」になりました。ただ敗北にカウントされている「桶狭間の戦い」はあくまでも織田vs今川の合戦であり、家康(当時…

【家康の謎】家康は何回名前を変えてるの?

…ある。間も無く家康は三河・尾張方面における今川氏の重要人物としての地位を占めるようになっていくので、そのための箔付けとして偉大な祖父の名を借りたのだろうか。なお「通字(とおりじ)」といってひとつの文字を先祖代々継承して名前に付けていく風習があるが、松平氏の通字はどちらかというと「忠」のようで「康」はあまり見つけられない。 そして最後に名前を変えたのが1563年(永禄6年)である。この3年前に桶狭間の戦いで今川義元が討死し、嫡男の氏真が跡を継義はしたものの、今川氏内部に少なから…

【家康の謎】家康の旗印にある「厭離穢土欣求浄土」の由来や意味は?

…だ。こちらはいわゆる三河一向一揆の時の出来事であるという。これによると、登誉は一向一揆と戦う家康に自ら人々を率いて味方した、というのである。そして家康から貰った旗に「厭離穢土欣求浄土」と書いた。ここでの意味合いは「生を軽んじて死を幸いにする」ということであり、そもそもは一向一揆側が「進めば極楽、下がれば地獄」と言った意味のことを鎧に書いていたことに対抗するものであったらしいのだ。 どちらが本当であるかはわからない。しかし、戦国乱世に生きるだけに、人を殺し、自分も殺されるかもし…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…午の乱)、結果として三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国を領有する大名となりました。 これで織田政権は安定するかと思われましたが、秀吉の勢力が増すことに危機感を覚えた信雄が秀吉に敵対し、小牧・長久手の戦いが勃発します。織田家と同盟関係にあった家康は、同じく秀吉に対して危機感を抱いたのか、信雄の行動を援護する形で小牧・長久手の戦いに参戦することにしたのです。 楽田城と小牧山城での9か月に及ぶにらみ合い 家康が本陣とした小牧山城跡には家康が改修した土塁と堀が復元されている 158…

細川玉子さんによる神君伊賀越えの紹介

…家康様は自刃を改め、三河国への帰還を決意されたそうです。(家康様は何度か自刃騒ぎをおこしています) そんな中、家康様たちとは別行動をされた方がおります。穴山梅雪様です。梅雪様は、家康様を脱出させるため二組に分かれ、一行の殿(しんがり)を務めたそうです。一日遅れで、家康様と同じ道筋で帰ろうとされていたところを一揆に襲われ、飯岡の渡しで亡くなられたそうです。 ただ、梅雪様の行動や亡くなられ方については諸説ございます。家康様を疑い、自身の身の危険を感じ別行動を取ったところを、落ち武…

【家康の謎】家康は桶狭間の戦いのあと、なぜ駿府に戻らなかったの?

…いうのである。当時の三河は大いに混乱していたので、その状況を落ち着かせるための緊急人事として家康が岡崎へ入ったと考えるわけだ。じっさい(ドラマとは違って)家康の妻と娘は早い段階で駿府から岡崎へ送られた(跡取りの竹千代だけが人質として残った)ことが近年分かっている。つまり、氏真は家康を信頼し、最前線である岡崎を任せたわけだ。 その家康がやがて今川からの独立を考えることになる。理由は、西三河における今川系勢力が劣勢に追い込まれていったことだ。当時の氏真は甲相駿三国同盟履行のため、…

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