攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

安土城 の検索結果:

【現在1756城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…年5月5日 墨城印 安土城×織田信長 安土城(滋賀県近江八幡市) 安土城郭資料館 330円 印刷 A6 2020年5月2日 西尾城 御城印 通常版 西尾城(愛知県西尾市) 旧近衛邸 500円 印刷 はがき大 2020年5月1日 彦根城 入城記念符 彦根城(滋賀県彦根市) 彦根城管理事務所、開国記念館 300円 印刷 縦15cm、横10.5cm 2020年5月1日 篠山城 御城印 篠山城(兵庫県丹波篠山市) 篠山城大書院 300円 印刷 A6 2020年4月 臼杵城 御城印 大…

攻城団のみんなが今年訪問したお城と高評価だったお城

…33 472 28 安土城(滋賀県近江八幡市) 3.85 286 288 29 金沢城(石川県金沢市) 3.84 268 287 30 白河小峰城(福島県白河市) 3.83 268 292 1位の姫路城と2位の松本城は東西の両横綱って感じなのでまあそうだよなと思うしかないのですが、3位の松山城や4位の備中松山城はけっこう意外でした。もちろんいずれも素晴らしいお城でぼくからもオススメですが、この手のランキングでトップ5に入ることはあまり多くないですよね。 kojodan.jp …

2023年に訪問して良かったお城

…賀県の山城、小谷城や安土城と比べてもはるかに楽だったのは驚きました。「山城に行ってみたいけど大変そうだし、遺構を見つけられるか不安だ」という方には全力で薦めたいのが玄蕃尾城です。 ただしひとりで行くのはオススメしません。今回ぼくは団員18名に加えて、ガイド2名という団体で攻城しましたが、クマ対策や遭難のリスクはやはりそれなりにあるので、複数人で行ったほうがいいです。当然山ですし、さらには城でもあるので、転げ落ちるとかなり危険ですし、土塁上から見ていて「ここから落ちるとヤバいな…

【家康の謎】家康はなぜ伊賀越えしたのか、他のルートはなかったのか?

…時、家康は堺にいた。安土城の信長に挨拶をした後、上方を見物していたのである。わずかな供(34人とされるが、大名の正式な行動だから数千人の兵を引き連れていただろうとも)だけを連れて孤立した家康は一時、「ゆかりの知恩院(浄土宗)で切腹する」とまで言い張ったが、本多忠勝に説得されて脱出を図ることになった。 この時、家康ら一行が伊賀を超えてのルートを選択したので、後世「神君伊賀越え」と呼ばれるようになったわけだが、上方から三河・遠江へ戻るルートは別に伊賀越えだけではない。東海道を通る…

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

3月に大津市で安土城についてのセミナー「安土城復元研究の過去・現在・未来」が開催されました。ちょうど京都御城印サミットの初日と重なっていたためぼくは参加できなかったのですが、このセミナーに参加された早稲田大学城郭研究会の中村優希さんにレポートを書いていただきました。中村さん自身が高校生の頃から安土城の研究に取り組まれてきたこともあり、非常にわかりやすいレポートとなっています。補足や所感も読み応えがありますので、セミナーに参加できなかった方はもちろん参加された方もぜひ読んでくだ…

細川玉子さんによる「瀬名様と信康様の軌跡を辿る、岡崎の旅」

…その瀬名様のお首は、安土城にいた信長様の首実検を受けた後、家康様のご家臣・石川数正様がお首を持ち帰り、こちらの祐傳寺に葬ったとされております。 戦国の姫も、苦しい最期を迎えている方も多くおります。わたくしも、幸せな最期だったとは言えないのかもしれません。ただ、瀬名様のこのお話は……このように綴っているだけでも、とても痛ましい出来事と思います。どうか瀬名様が安らかに眠られていることを祈るばかりです……。 お次は、信康様のゆかりの地を目指したいと思います。岡崎市には、信康様の首塚…

京都市考古資料館で「THE 金箔瓦」を見てきました

…くらいです。 一部(安土城)をのぞいて撮影オッケーだったので、写真を撮ってきました。遠方にいらっしゃる方のために載せますが、瓦の質感とかまでは写真では伝わらないと思うので、できるだけ京都まで足を運んでいただきたいです。コラボ御城印も発売中なので、「京都御城印サミット」に来られる方はその前後に京都市考古資料館にも寄っていってください。 じゃあどどっと写真レポートです(手抜きとも言う)。 歴史的には安土城からはじまった金箔瓦は、当初織田一門にのみ許されていたものの、秀吉の時代にな…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…た。 一方で家康は、安土城を訪れたのちに立ち寄った堺で、本能寺の変の報せを受けました。危機を感じた家康は伊賀経由で岡崎城へ急ぎかえりました。家康三大危機のひとつにも挙げられる、いわゆる「伊賀越え」です。からくも逃げ帰った家康は明智討伐に出ようとしますが秀吉が討ったとの知らせを受けるや織田領となっていた上野・甲斐・信濃をめぐって北条と争い(天正壬午の乱)、結果として三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国を領有する大名となりました。 これで織田政権は安定するかと思われましたが、秀吉…

細川玉子さんによる神君伊賀越えの紹介

…こと。 家康様らは、安土城にてもてなしを受けられたのち、信長様からの勧めもあり、京都や堺(現在の大阪府)を見物されておりました。その後、京都におられる信長様にご挨拶へ向かわれる予定で、堺から京へ上洛する途中にて、本能寺の変の知らせを聞いたとされております。 本能寺信長廟(本能寺の位置は当時から移転しています) 家康様に危機を知らせた人物とは、京都の豪商、茶屋四郎次郎(ちゃや しろうじろう)殿。「どうする家康」では中村勘九郎様が演じられるそうです。茶屋殿から、父上(明智光秀)の…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…清洲城、岐阜城を経て安土城へ 家康は休憩所や食事にも万全を尽くした 領内で信長を殺す? 5月に安土城を訪問、その後信長の勧めで京都・大坂・堺の見物へ 5/29、家康は堺に入り、翌6/1に津田宗久の茶会に参加 6/2、京に戻ろうとしていたところ、本能寺の変について茶屋四郎次郎から聞く 家康は当初、そのまま上洛して知恩院で追腹(殉死)することを考えたが家臣に説得された 三河に戻るために伊賀越え 別行動を取った穴山梅雪は落武者狩りにあって討たれる 伊賀越えする? 6/5、岡崎城へ帰…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…屋破風を向けており、安土城や大坂城の天守も最上重は正面に入母屋破風を向けていました。そのような天下人の天守の格式を名古屋城天守は継承しているのです。 名古屋城の基本情報 築城者 徳川家康 築城年代 1609年(慶長14年) 別名 金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城 分類 梯郭式(または輪郭式)平城 家康にまつわる出来事 公儀普請(天下普請)によって徳川家康が築いた城で、築城技術の最高到達点ともいえる。 歴代城主 尾張徳川家 まとめ 徳川家康による築城技術の最高到達点として、ま…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…ます。外枡形は信長の安土城黒鉄門や、秀吉の豊臣大坂城本丸桜門などに使われた形式で、これを連続させて用いて防御機能を高めていることがわかります。最後は馬出です。馬出は城門の前の堀の対岸に橋でつないだ一定の区画のことを言い、甲斐の武田氏や関東の北条氏などが用いた出入り口の形態です。主に東日本で発達しました。江戸城の本丸北側ではこの馬出を三つも連続させて防御している様子がわかります。このように、「江戸始図」の発見によって本丸と天守の構造が明らかとなり、家康の築城術を目の当たりにする…

【戦国軍師入門】竹中半兵衛――諸葛亮にも例えられた知性派策士

…半兵衛は信長の居城・安土城の建築にも関わっていたが、ある時にちょっとした問題が生じた。蛇石という大きな石を山に引き上げる必要があったのだが、あまりに大きくてなかなか持ち上がらない。そこで半兵衛が「軍に詭道(騙し)有りというように、この石を引き上げるのにも詭道をもってすれば上手くいくでしょう」と言って、直線ではなく山肌を回るように道を造らせた。するとさしもの大石もなんなく運ぶことができたのだ。 こうした彼の冷静さや視野の広さは、「高価な馬を持っているとそれが惜しくなってしまって…

【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

…長の居城として有名な安土城の築城にも関わっていたのだから、彼が大変に重宝がられていたことがよくわかる。そんな正勝の働きは実際にはどんなものだったのだろうか? 元「野党の親分」というイメージからは、合戦や諜報など、情報収集と腕力による活躍が想像される。もちろん正勝は戦場でも多くの武勲を上げているのだが、それ以上に多いのが外交折衝での活躍だった。 秀吉は降伏した相手は無闇に殺さなかった武将として名高いのだが、実はそうした評判を作るのに大いに貢献したのが彼、蜂須賀正勝だ。特に中国方…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台⑤――お市の方が殉じた城・北ノ庄城

…平城を築いた。信長の安土城に勝るとも劣らぬ壮大な城であったと伝わるが現存せず、のちに結城秀康によって築かれた北ノ庄城(福井城)は勝家の城から北方へ200メートルほどの場所に築かれたらしい。 本能寺の変による織田信長の死後、勝家は羽柴(豊臣)秀吉との後継者争いを演じることになった。信長の妹を娶ることになったのも、その延長線上のことである。両者とその支持者による争いが激しくなる中、1583年(天正11年)に「賤ヶ岳の戦い」が起こる。この戦いに敗れてしまった勝家は北ノ庄城に引き返し…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑧――わずかな兵に乗っ取られた城・稲葉山城

…のもある。織田信長が安土城に移るまでの間居城とし、「天下布武」を進めるための拠とした美濃の岐阜城(岐阜県岐阜市)は、金華山という山に答え立つ山城である。もともとは稲葉山城という名前で、斎藤氏の城だった。築城されたのは1201年(建仁元年)と古く、鎌倉幕府の吏僚であった二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)が築城主である。これが美濃守護代の斎藤氏の居城となり、その家臣である長井氏の城となって、長井氏・斎藤氏を下剋上で滅ぼした斎藤道三の居城となる、という経緯をたどった。 ところがこの…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑦――支城を失い、戦意を失った城・観音寺城

…の安土山に織田信長が安土城を築いたのも納得の重要拠点といえる。 繖山は南北朝時代からも山砦として使われてはいたが、本格的に城が築かれたのは戦国時代になってからで、全盛期とされる六角定頼(ろっかく さだより)とその子・義賢(よしかた=承禎)の時代に改築されて壮大な石垣(当時普及を始めていた新兵器・鉄砲に対抗するためだったらしい)による補強がなされ、城下町も形成された。しかし、六角氏がこの城を放棄するとともに廃城になっている。 六角氏がこの城を捨てなければいけなかったのは、156…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑩――戦うことなく炎に消えた城・安土城

…挙げたように、近江の安土城(滋賀県近江八幡市)は戦国の城から近世城郭への移り変わりのターニングポイントとされる、重要な城である。1576年(天正4年)に織田信長が家臣の丹羽長秀に命じて、築城を開始させた。信長が天下布武の拠点として築いた城ということもあって、彼が自ら普請の指揮をとることもあったという。 壮大な石垣はこの以後にすらまれに見る規模であり、五層七重の天守閣(信長は「天主」と称した)は白、黒、朱、青などそれぞれの階で配色が異なり、最上階は黄金に輝いていたという。また、…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】地形に合わせて縄張をする

…にかかわった職人としては、鍛冶職人や大工、石垣のための石を切り出す職人に木材を切り出す大鋸引などに加えて、城内の調度品として各種の細工職人などもいた。 特に名高い職人としては、安土城の石垣を作ったとされる近江の石垣職人集団、穴太衆(あのうしゅう)の名が知られている。彼らはもともと五輪塔など仏教関係の石工であり、そこで磨いてきたであろう技術を用いて、安土城に革新的な高層の石垣を築いた。以後、城を築いた大名たちは彼らを積極的に招いたので、その名が広く知られるようになったのである。

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】天守閣と高層石垣の近世城郭――「戦国の城」の終わり

…信長自らが作り上げた安土城の三つだ。 多聞城は高い石垣と天守閣の原型となる白塗り漆喰の建造物を持った城であり、二条城は一番最初に天守閣を備えた城であるという(金閣寺の影響を受けた、とも)。そして安土城こそが高い石垣と当時では考えられない五層七重の天守閣(天主)をもった、「象徴の城」の先駆けであった。城の目的が「防衛」と「統治」だった、というのは何度も紹介してきたとおり。しかしこれ以後、そこに三番目が加わる。すなわち、「支配の象徴」であることだ。 金や朱・青などで色取り取りに飾…

【10大戦国大名の実力】織田家④――信長の息子たち

…洲会議での「三法師は安土城に」という取り決めを破り、岐阜城に留め置くことによって秀吉に実権がわたるのを防ごうとする。しかし、秀吉は信雄を味方に取り込んで正当性を確保しようとする。近年の研究によると、信雄がこの際に織田家当主となっていたらしい(少なくとも秀吉陣営はそう扱っていた)ことがわかっている。 結果として秀吉・信雄陣営と勝家・信孝陣営の対立は加速し、賤ヶ岳の戦いへと至る。この戦いで勝家は居城で自刃に追い込まれ、信孝は一度秀吉に降伏して三法師を引き渡した後、再び挙兵するも兵…

【2021/2022】年末年始にお城は営業してる?(全国のお城の営業状況調査)

…17:30開城 ○ 安土城 滋賀県近江八幡市 休みなしで営業 ※安土城郭資料館・滋賀県立安土城考古博物館・信長の館は12月28日〜1月4日まで休館 ○ 大洲城 愛媛県大洲市 休みなしで営業 ○ 白石城 宮城県白石市 12月28日~31日は休業 ○ 会津若松城 福島県会津若松市 休みなしで営業 ○ 白河小峰城 福島県白河市 12月29日〜1月3日は休業 小田原城 神奈川県小田原市 12月31日〜1月1日は休業 ※常盤木門SAMURAI館・小田原城NINJA館(歴史見聞館)も休業…

戦国時代の食事事情について教わりました

…も食事は必要ですし、安土城で信長や家康を饗応したように宴席での食事も非常に重要でした。 今回の番組で榎本先生がいちばん紹介したかったのが、この戦場食の話だったそうです。戦場では「干し飯(一度炊いて乾燥させた飯)」や「芋がら縄(味噌で煮染めたずいき=芋の茎。縄にも使うし、即席味噌汁の元にも)」を食べたそうですが、子どもの頃にマンガで読んでびっくりされたとか。 有名な携帯食に「兵糧丸」があります。これはさまざまな材料を砕いて練って丸めて持ち歩く団子のような食べ物で、『上杉家兵法書…

【クーデターで読み解く日本史】覇王の夢を打ち砕いた三日天下の野望――本能寺の変

…信長は本拠地を近江の安土城とし、各地には重臣たちを派遣して制圧にあたらせていた。関東地方には滝川一益(たきがわ かずます)、北陸地方には柴田勝家(しばた かついえ)が、中国地方には羽柴秀吉(はしば ひでよし=後の豊臣秀吉)、そして近畿地方には明智光秀(あけち みつひで)、といった具合である。 1582年(天正10年)、信長は中国にいる秀吉から「毛利の大軍が攻め込んできたため援軍がほしい」との要請を受けて自ら出陣するべく安土城を出て、京で定宿としている本能寺に入った。この時、彼…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…徴する存在ともいえる安土城は信長が長秀に命じて築かせたものである。 主君である信長が死ぬと、その仇を討った羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に味方し、同僚である柴田勝家を打ち破るにあたって大きな戦功をあげた。秀吉が短期間で旧織田政権を掌握できたのには、長秀の協力が大きかったといえるだろう。ただその一方で、長秀は信長が死んだ際には四国の長宗我部家征伐の準備中だったため近畿地方におり、光秀にも近くかつ信長の息子で旗頭になりうる信孝とも合流したのに、ついに自分が主導権をとって信長の敵討ちをし…

【2020/2021】年末年始にお城は開いてるの?(全国のお城の営業状況調査)

…開は1月1日は休業 安土城 滋賀県近江八幡市 休みなしで営業 ※安土城郭資料館・滋賀県立安土城考古博物館・信長の館は12月28日〜1月4日まで休館 ○ 大洲城 愛媛県大洲市 休みなしで営業 ○ 白石城 宮城県白石市 12月28日~31日は休業 ○ 会津若松城 福島県会津若松市 休みなしで営業 ○ 白河小峰城 福島県白河市 12月29日〜1月3日は休業 小田原城 神奈川県小田原市 12月31日は休業 ※常盤木門SAMURAI館、小田原城NINJA館(歴史見聞館)は1月1日まで休…

【お城の基礎講座】75. 織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)

…れは織田信長が築いた安土城で完成され、羽柴秀吉のちの豊臣秀吉が全国に普及したと言われています。これを織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)と言います。現在のお城のイメージの礎となった織豊系城郭について、今回は学んでいきましょう。 近世城郭(きんせいじょうかく)の始まり 近世城郭(きんせいじょうかく)というのは、水堀で囲まれて天守がそびえ立つというのが一般的なイメージです。これは織田信長(おだのぶなが)が築いた安土城(あづちじょう)によって完成されたと考えられています。安土城は…

【お城の基礎講座】70. 白い城と黒い城

…の最も代表的なものが安土城です。安土城天守は現存していませんのでどのような姿をしていたかというのはっきりとはわかりませんが、今までに色々な復元図が作成されています。それらを見ると安土城天守は黒色の天守です。ということは、天守が登場してからしばらくは黒い天守が主だったと考えられます。 黒い天守 黒い天守は壁が黒色です。具体的には、板張りの壁が雨風で朽ちないように黒漆(くろうるし)や柿渋(かきしぶ)などを塗って耐久性を高めたものです。このため、見た目に黒い天守となるのです。現存す…

「光秀と信長―天下布武の道―」参加レポート

…それは義昭の追放後、安土城の築城とほぼ同時期に築かれた二条御新造です。のちに誠仁親王に献上され(正親町天皇の禁裏=上御所に対して)「下御所」と呼ばれたこの屋敷は信長もかなり気に入っていたのか(また将軍同等の地位になった責任感もあってか)わずか2年余りの間に14回も上洛して宿泊しています。 誠仁親王に献上したあとは本能寺を宿所にするのですが、このとき本能寺は敷地も拡張され、また境内には信長の御座所とされる御殿――本能寺の変で信長が自害し、焼け落ちた建物――も造営されています。本…

【本能寺の変の謎の謎】状況が光秀を導いた!?

…軍団がおらず、信長は安土城からわざわざ出てきて身を守りようがない京の本能寺に入った。しかも、嫡男の信忠までもが京にいる。この二人がまとめて死んだからこそ織田政権は実質的に崩壊したわけで、幸運としか言いようがない。 このような幸運が光秀に舞い込んだのはなぜか。ひとえに、まさか光秀や裏切るわけがないという信長の油断によるものであろう。近年の研究で、信長は従来のイメージのような疑り深い人物ではなく、むしろ積極的に信じて裏切られるタイプの人間であったろうと考えられるようになっている(…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する