攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

安祥城 の検索結果:

【現在1756城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…日 安城城 御城印 安祥城(愛知県安城市) 安城市歴史博物館 330円 印刷 2023年1月14日 鶉古城 御城印 記憶の城通常版 シンボルタワー未来MiRAi 400円 印刷 はがき大 2023年1月7日 高天神城 御城印 高天神城(静岡県掛川市) 掛川市文化会館シオーネ 900円 印刷 2023年1月7日 相方城 御城印 相方城(広島県福山市) world wide 371 kannabe 300円 印刷 はがき大 2023年1月7日 岩崎城 御城印 令和五年度版 岩崎城…

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

…に倒れ、そのあとを継いだ氏真は家を守ることができず、今川家は滅亡してしまう。まさに雪斎こそが今川家の命運を握っていたのかもしれない。 また、彼が果たした歴史的役割として、もうひとつ、重大なものがある。それは松平元康、のちの徳川家康に影響を与えた、という点だ。先にも触れた安祥城攻めの際に改めて今川家の人質となった彼の後見役を務めたのが雪斎だった。今川家を支えた当時有数の軍師から教育を受けたことが、のちに長い忍耐の末に天下を掴んだ家康の戦略に、大きな影響を与えたことは間違いない。

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

…の三河侵攻拠点である安祥城(愛知県安城市)を奪い取ったことで尾張攻めに移れるようになったということであり、また水野氏の離反を放置しておくと、ほかの国人まで松平・今川を見捨てかねない、という不安もあったのかもしれない。 織田氏としてはこの攻勢を信元が防ぎきってくれることを期待していたようだが、そうはならなかった。天文年間(1532―55)の末頃には重要な拠点である刈谷城を攻め落とされ、その後、織田・今川の和議によって返還された。これがいつ頃のことかはっきりしないが、天文18年か…

【戦国軍師入門】安祥城の戦い――軍師僧・太原雪斎の交渉術

「安祥城の戦い」は今川家と織田家が争ったものだ。ここで特に注目したいのは、合戦が終わった後の事後処理について。こうした交渉ごとについて取りしきったり助言したりするのもまた軍師の役目なのだ。 まずは今川家と織田家、そして松平家(後の徳川家)にまつわる事情について紹介しよう。松平家は一時三河(現在の愛知県東部)全域を支配するようになったが、内紛によってその勢力を減じ、松平広忠の代には駿河・遠江(共に現在の静岡県)を支配する今川義元の勢力下にあった。一方、尾張(現在の愛知県西部)の…

【戦国合戦こぼれ話】安祥城の戦い――戦後交渉こそが重要だった

…天文18年)、三河は安祥城(安城城)をめぐる戦いはその代表格だ。 この時期、三河は駿河の今川義元と尾張の織田信秀の争いの舞台となっていた。元々、この地に大きな力を持っていたのは松平氏だったが、絶頂期を築いた松平清康が家臣によって殺害されて後はすっかり衰退し、今川氏の支配下に入っていた。つまり、織田vs松平(のバックにいる今川)という状況になっていて、たびたび両者が激突していたのだ。 そんな中、義元の軍師として、また外交僧としても名高い太原崇孚(雪斎)の率いる軍勢が安祥城を攻撃…

【戦国を彩る名軍師たち】東海一の弓取りを育て、支えた軍師・太原雪斎

…父)を打ち破り、また安祥城を攻め落とした際には織田信広(信長の庶兄)を捕らえて人質交換の材料にした。これによって織田から今川へ渡されたのが松平氏の竹千代、のちの徳川家康で、もともと今川氏の支配下にあった松平氏はいよいよ今川に逆らえなくなった、というわけである。崇孚はただ兵を動かすだけでなく、このように政治とも絡めることができる非常に賢明な人物であった。 ところが、崇孚死後の今川氏は急速に衰退を遂げていく。義元は桶狭間の戦いで信長に討ち取られ、その後を継いだ氏真はかつて支配下に…

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