攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

居館 の検索結果:

攻城団テレビで南部氏の歴史について話をしました

…ていた四角い館=方形居館(ほうけいきょかん)を南部一族の中で唯一作っていたり、金メッキの建具を使っていたりと、権力の強化・中央との結びつきを感じさせる発見が相次いでいるとか。 南部晴政の登場と南部家の混乱 1539年(天文8年)、三戸南部氏の南部安政(やすまさ)が上洛し、時の将軍である足利義晴に拝謁して「晴」の一字をもらい、以後「晴政(はるまさ)」を名乗ります。この晴政は戦国大名としての南部氏を大きく発展させた人物でしたが、実子がいなかったため、叔父で一族内の有力者でもあった…

「歴史遺産ウォーク in 那珂川『二つの山城跡と菩提寺を巡る歴史ツアー』」開催レポート

…武茂城址」と松野氏の居館「台の館跡」をめぐりながら、両氏の菩提寺である「乾徳寺」と「松林寺」を訪ねる「歴史遺産ツアー」のひとつとしで行われました。旅のナビゲータを“山城ガールむつみ先生”が務め、町の学芸員がサポートとして同行しました。モニターツアーのため参加者の方は10名ほどでしたが、終始和やかに行われました。今回、このツアーを企画しました山城めぐり初心者の観光協会・山口がレポートいたします。 3月4日、天候に恵まれ町の施設「広重美術館」駐車場に集合し、観光協会よりオープニン…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ②――徳川の大軍を押し返した城・上田城(第一次上田城の戦い)

…の地にあった常田氏の居館を整備しているが、城郭としての上田城は昌幸の手によるものだ。山を背にした平城で、かなりの規模であったと考えられるが、詳細はわからない。 しかし、上田城は完成してすぐに戦火に晒されることになる。この時期、武田氏の滅亡に本能寺の変での織田信長の死と大事件が頻発し、中部地方は実質的な空白地帯となってしまったからだ。結果、上杉氏・北条氏・徳川氏の三勢力がこの地域に手を伸ばしてくる。これに対し、昌幸は丁々発止のやり取りを繰り広げながら自らの領地を守り、それどころ…

【お城の基礎講座】84. 三大山城(さんだいやまじろ)

…られた曲輪と、山麓の居館とで構成されていました。山麓の太鼓櫓や表御殿は平成になって復元されました。 岩村城は海抜717mの高所に築かれた近世山城で、石垣が見事だ! 高取城(たかとりじょう) 筒井順慶によって近世城郭に改修された高取城は、標高583mの高取山に築かれました。比高は最も高い390mです。江戸時代は本多氏、植村氏が城主を務めました。南北に長い尾根筋に高石垣が築かれ、27基の櫓が備えられた大城郭でした。かつては三重三階の天守が小天守とともに建てられていたそうです。27…

黒まめさんのオンライン研究会「躍動する熊野の武士団」参加レポート

… 安宅氏城館 安宅氏居館(安宅本城)、八幡山城、中山城、土井城、要害山城、大野城、勝山城および大向出城の8か所(古武ノ森城を含めると9か所)の城跡が残っています。今回、国史跡に指定されたのは、安宅氏居館、八幡山城、中山城、土井城、要害山城の5か所です。水軍領主として自立的な領域支配を行っていた証左となる点で重要な史跡であると認められたということです。以下は、それぞれの史跡の概要です。(写真は黒まめが撮影したものです。) ①安宅氏居館(安宅本城) 南北約120m、東西約100m…

【お城の基礎講座】75. 織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)

…守を、城内には城主の居館である御殿を設けました。また小牧山城築城の頃から城下町の建設も始まっています。 小牧山城(愛知県)は、信長の城づくりの原点 岐阜城(岐阜県)の山麓にある信長像。ここでも信長は新しい取り組みをしていた JR岐阜駅前の金の信長像。信長はどんな城づくりを目指していたのだろう 近世城郭の普及 安土城で完成した近世城郭が信長の手によって普及したかと言うと、そうではありません。なぜなら、安土城築城後に本能寺の変によって織田信長が亡くなってしまったからです。この後、…

【お城の基礎講座】74. 中世城郭(ちゅうせいじょうかく)

…れらは山上の城と麓の居館(きょかん)とに分かれており、それらを合わせて中世城館(ちゅうせいじょうかん)と呼んでいます。今回は武士が築城した中世城郭(ちゅうせいじょうかく)について学んでいきましょう。 中世城郭・武士が築城した城 平安時代までの城は朝廷(ちょうてい)による国家プロジェクトとして、大規模な城が築かれていました。しかしそれ以降になると武士による築城が始まり、城の規模は縮小していきます。武士と言っても国人(こくじん)や土豪(どごう)と呼ばれる階層の人々で、自分の領地を…

五三の桐、五七の桐は知ってるけど、九七の桐とか五五の桐とか知ってた?

…島県福山市)にあった居館の瓦に「九七の桐」が入っていたそうです。たしかに福山市鞆の浦歴史民俗資料館のブログ記事には出土した「九七の桐」の瓦の写真が載っています。さらに調べるとやはり鞆に流れてきた義昭が滞在した同市内の常国寺にも「九七の桐」が彫られた板があるそうです。また警固を担当した渡辺氏に下賜した胴肩衣(どうかたぎぬ)にも「九七の桐」が染め込まれているとか。 福山市鞆の浦歴史民俗資料館|展示と催し物 » Blog Archive » 足利義昭居城の瓦 足利義昭胴肩衣(あしか…

【お城の基礎講座】49. お城の縄張(なわばり)

…になりました。城主の居館や城下町などは山麓か他の場所に作られ、城と一体化していませんでした。ちなみに曲輪の名前は二の丸、三の丸などと数字で言うものもあれば、西の丸、東の丸などと方角で言うもの、帯曲輪(おびぐるわ)、腰曲輪(こしぐるわ)、水の手曲輪(みずのてぐるわ)などの名称もあります。 近世の縄張 近世になると城が平地に作られることが多くなりました。平らな部分が増えたため、縄張りも広くなり、形も四角などが多くなりました。城主の居館である御殿や櫓、門、水堀などいたるところに作ら…

京都文化博物館の総合展「明智光秀と戦国京都」にいってきました

…現在の阪急桂駅近くに居館がありました。19代・革嶋秀存が「山崎の合戦」で光秀に味方したため没落していきますが、鎌倉時代にはじまる革嶋家の貴重な史料が残されています。 広くないとはいえ、こうした書状が20点近く展示されており、そのすべてがカラー写真と解説文のセットで掲載されている図録がなんと無料でもらえます。入館料500円でこのサービスはすごいです。(なので館内に貼り出されている文章はメモを取らなくても大丈夫です) 前期は7月19日(日)まで、7月22日(水)からはじまる後期は…

毛利元就ゆかりの地おすすめ19選

…た。城の東側の斜面に居館跡と伝わる広大な平坦部があり、そこで生まれたとされています。 国重 | 本丸[鈴尾城] 城は前面に江の川が流れ小高い要害のようになっておりその頂部に本丸がありました。また東山麓に福原氏一族の墓所があります。 鈴尾城跡へは車かバスで行くことになります。交通の便が良い場所ではありませんが車でしたら中国自動車道高田ICから約20分くらいです。公共の交通手段は広島バスセンターから1時間10分ほどで宮之城にて下車、徒歩10分くらいです。 kojodan.jp 多…

かつての王都・浦添グスクと浦添ようどれを取材してきました(伊祖グスクも)

…よれば以前は「館跡(居館跡)」と呼んでいたのですが、規模が小さいため「屋敷跡」と改めているそうです。 浦添家の居館自体はかなり広範囲だったとされます。発掘調査では水を貯めるプールのようなものも見つかっています。 親富祖さんは察度王統の時代はもっと広かったかもしれないとおっしゃってました。一方で英祖王統の時代は自然地形をそのまま使っていただろうから、もっと狭かったとも。そのあたりは発掘調査をすればなにかしらわかるんだけど、英祖王統・察度王統・浦添家(尚維衡〜尚寧)と遺構が層にな…

「麒麟がくる」第1回に登場した明智城と稲葉山城はどんなお城か

…。山麓に平時に暮らす居館があり、敵に攻められた際には山上の詰の城に退避して味方の援護を待ったり、時間稼ぎをしました。当時は農民兵が多かったので、田植えや収穫などの時期がくると撤退するしかなかったので籠城側にとって持久戦は有効な戦法でした。「おんな城主直虎」で登場した井伊谷城も山麓の居館と、山上の詰城という構成だったのを覚えてる方も多いと思いますが、この居館と詰城のセットでお城だということはおぼえておいてください。 「麒麟がくる」の第1回は1547年(天文16年)の設定で、利政…

【鹿児島】仙巌園の御殿はすごかった(写真満載レポート)

…(鹿児島城に代わる)居館として利用されましたが、それにともなって1895年(明治28年)に建てられた正門です。 (忠義の死後、跡を継いだ島津忠重は東京に移住) 建材として樟(くすのき)が使用されています。島津氏の家紋「丸十紋」が目立ちますね。 外側から見た正門です。 この写真も道路ギリギリから撮影しましたが、すぐ外が道路なので現在は使われていません。 庭園 つづいて仙巌園の庭園です。 標柱にも国の名勝に指定されたことが書いてあります。 この錫門は「西郷どん」のロケでも使われま…

国土地理院から戦前の古地図(複写)を入手する方法と「今昔マップ」の紹介

…敷曲輪と呼ばれた藩主居館のエリアは埋め立てられて現在は野球場になっていますし、ほかにも(かなり残っているほうですが)水堀が埋め立てられたりしています。 こうした公園化は明治時代からおこなわれていましたが、大規模な造成を伴うものは昭和に入ってからが大半です。逆にいえば、明治期の地図が手に入れば、それは江戸時代(少なくとも幕末頃)のお城の様子がわかるということです。 そうした地図の代表的なものが、大日本帝國参謀本部陸軍部測量局が測量した地図です。 1897年(明治30年)から19…

城の分類(平山城と山城の境界線)

…山上に城郭、ふもとに居館を築いたそうなので、ふもとに居館があるかどうかで区別できるのかと思いきや、戦国後期には、山上の主曲輪に領主の居館を構え、中腹に家臣たちと人質としてその一族を住まわせた例もあるので、それもうまくいきません。 たとえば安土城の場合は巨大な城下町があったので、城下町の有無というのも条件として考えられるのですが、でもそうなると地勢による分類からはずれてしまうんですよね。 どうやらポイントは「比高」らしい 気になったので調べてみたのですが、いくつかの本を見た感じ…

井伊直虎の城

…伊谷城が平時に住む「居館」的な扱いで、三岳城がいわゆる「詰の城」だったようです。 あとは「井伊直政ゆかりの城」としてくくったほうがよさそうなお城が並んでいます。 小牧山城 上田城 箕輪城 高崎城 佐和山城 彦根城 小牧山城は井伊直政が「赤備え」を披露した城だそうです。 上田城のところには「直政も家康とともに翻弄される」とあります。 箕輪城は直政が改修した城、高崎城は直政が築いた城ですね。 佐和山城は「関ケ原合戦」後に直政に与えられた城で、彦根城は直政没後に井伊直継(井伊直勝)…

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