岡崎城 の検索結果:
… 2019年12月 岡崎城 御城印 岡崎城(愛知県岡崎市) 岡崎城天守 300円 印刷 2019年12月29日 金ヶ崎城 御城印 金ヶ崎城(福井県敦賀市) 金崎宮社務所 300円 印刷 2019年12月26日 金田城 御城印 金田城(長崎県対馬市) 対馬観光物産協会観光案内所 300円 印刷 はがき大 2019年12月21日 黒井城跡 御城印 黒井城(兵庫県丹波市) 丹波市観光協会、道の駅 おばあちゃんの里、氷上PA 丹波いっぷく茶屋、かいばら観光案内所、あおがき観光案内所、…
…ご覧ください。1位の岡崎城(686回)は明らかに大河ドラマ「どうする家康」の影響でしょうね。おそらく4位の浜松城(500回)、6位の駿府城(490回)もそうかな。 姫路城(627回)や名古屋城(534回)、松本城(500回)などメジャーなお城は入城者数調査でも上位に入ってますし毎年のようにランクインしているのですが、今年はやっぱり大河ドラマのおかげでランキングが変動していて楽しいですね。(ちなみに去年は姫路城、松本城、名古屋城が、一昨年は彦根城、名古屋城、姫路城がトップ3でし…
…を見るとわかるように岡崎城や駿府城など家康自身のお城だけでなく、ライバルの城として高天神城や上田城など、また家臣たちの城として大多喜城や彦根城など全国のお城がたくさん紹介されています。 中身も一部サンプル画像をいただいたのでご覧ください。 今回はこの「おもしろすぎる家康の城図鑑」を5冊プレゼントとしてご提供いただきました!(しかも栗原響大さんのサイン入りです!)応募はフォームから簡単にできますので、みなさんふるってご応募ください。 最後にこの書籍の著者である栗原響大さんからメ…
…た頃、父祖の地である岡崎城主としてのものだ。のちの岡崎藩の領地は5万石程度であった。まったくイコールではないだろうけれど、大きく違わなかったのではないか。さらに家康はまずもともと影響力の強い西三河を、続いて今川氏の勢力が衰えて混乱状態になっていた東三河を支配下に収め、三河統一を果たす。太閤検地によると三河は29万石。このくらいになると立派な大名と言ってよかろうが、西に隣接する織田信長の尾張は57万石だというから、正面向かって立ち向かうのは難しそうだ。家康が旧主君の今川を見限り…
…)が描かれましたが、岡崎城周辺にあるふたりのゆかりの地レポートを京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの細川玉子さんに書いていただきました。信康事件は謎の多い事件ですが、現在提唱されている諸説も整理してくださっているのでドラマの復習にもなると思います。 皆々様、ご機嫌麗しゅうございます!京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの、細川玉子にございます。 いつも記事をご覧くださり、本当にありがとうございます! 此度は【どうする家康 岡崎 大河ドラマ館】へ伺った際に、岡崎市にございます家康…
…起きた。家康が嫡男で岡崎城主の信康に切腹を強要して死に至らしめるとともに、その母で正室の築山殿を殺害させたのである。 通説では、家康は同盟者・織田信長の要求によってやむなく妻と息子を殺さざるを得なかったという。というのも、信康が正室として迎えた徳姫(信長の娘)と、家康(当時は浜松城を本拠)との不仲から岡崎にいた築山殿の関係が悪化した末、徳姫が父・信長に不満を訴えることになってしまったからだ。その内容が単に義母への不信、あるいは夫との不仲(男児が誕生しなかったのが原因とも)であ…
…ある岡崎松平を倒し、岡崎城を奪ったので、以後は安城松平を岡崎松平と呼ぶことが多い。なお、のちに本来の岡崎松平の庶流が子孫を名乗り、大草松平と呼ばれた。 清康は「世良田二郎三郎清康」を名乗った。「世良田郷(せらだごう)」がルーツである。このような名乗りをする必要があったのは、「足利の名門である今川に対抗する必要があったから」ではないかという説があり、説得力がある。その中でもなぜ世良田氏を選んだのかといえば、「世良田弥四郎頼氏」が三河守だったからで、清康は「新田一族で大館氏(おお…
…ます。 岡崎公園には岡崎城がございまして、そちらまでは、名鉄東岡崎駅から徒歩15分ほどです。駅の改札を出ますと、階段に大きく大河ドラマ館のご案内が印刷されておりました。 そして観光案内所もあり、たくさんのリーフレットもございました。わたくしもいくつか頂戴させていただきました。 なお、家康様と背丈を比べられるパネルもあり、面白いなと思いました。 159cm……、玉子と変わりませんね😊(令和のわたくしは156cm程です) 岡崎の町を楽しみながら、岡崎公園へ向かいます。遠くからも岡…
…ての家康は先祖伝来の岡崎城を拠点にしていたが、領国が広がるとこれでは不便になる。結果、家康は新たな居城として浜松城を築いた。三方原台地の東南端に築かれた城で、家康は駿府へ移るまでこの土地を拠点とした。 しかし、家康はまったくイチから浜松城を築いたわけではない。この場所はもともと「曳馬(引馬。ひくま)」と呼ばれていて、曳馬城という城があった。最初の築城は15世紀、吉良氏の家臣だった巨海新左衛門尉(おおみ しんざえもんのじょう)という人の手によるものだったとされる(今川氏による築…
…じた家康は伊賀経由で岡崎城へ急ぎかえりました。家康三大危機のひとつにも挙げられる、いわゆる「伊賀越え」です。からくも逃げ帰った家康は明智討伐に出ようとしますが秀吉が討ったとの知らせを受けるや織田領となっていた上野・甲斐・信濃をめぐって北条と争い(天正壬午の乱)、結果として三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国を領有する大名となりました。 これで織田政権は安定するかと思われましたが、秀吉の勢力が増すことに危機感を覚えた信雄が秀吉に敵対し、小牧・長久手の戦いが勃発します。織田家と同…
… 上ノ郷城、大高城、岡崎城などすでに大河ドラマにも登場しているお城もあれば、これからまちがいなく登場するお城も紹介されているのでテレビのお供としても一年楽しめそうですね。 中身も一部サンプル画像をいただいたのでご覧ください。 今回はこの「ぶらり徳川家康ゆかりの城跡+忍びめぐり」を5冊プレゼントとしてご提供いただきました!(しかも佐藤強志さんのサイン入りです!)応募はフォームから簡単にできますので、みなさんふるってご応募ください。 最後にこの書籍の著者である佐藤強志さん(国際忍…
…は伊賀を越え、無事に岡崎城へ帰城されます。(岡崎城までの帰還ルートは諸説あるようです) kojodan.jp 家康様の人生の中でもとても危険な体験だったと伝わる、神君伊賀越え。そのゆかりの地である京田辺市では、ただいま「京田辺伊賀越えスタンプラリー」が開催中です! news.kojodan.jp 市内に八カ所ある、伊賀越えゆかりの地を巡るスタンプラリーとなっております。すべてのスタンプを集めると全員に、京田辺玉露ティーパックと抹茶ぼーるちょこ、京田辺家康公伊賀越えオリジナルク…
…ころが父の城であった岡崎城には入らず、まず松平氏の菩提寺である大樹寺へ入る。当時の岡崎城には今川方の城代が入っていて、家康がそのまま入ることはできなかったからだ。その城代が駿河の方へ引き上げていく。つまり「捨てた」ということだ。捨て城であるなら拾ってしまっても構わないだろう――そのように理論武装、言い訳を用意した上で、家康は岡崎城に戻った……以上が、いわゆる通説における家康の岡崎城への帰還である。 これは「家康はあくまで松平氏の当主という独立した武将で、今川には人質として捕え…
…たのち、5月14日に岡崎城で家康と合流しました。 その後、織田・徳川連合軍は5月16日に牛久保城、17日に野田原を経由して、18日に設楽原に到着しました。極楽寺山に信長、新御堂山に信忠、有海原(設楽原)に滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀らが着陣、家康は古呂道坂の上の高松山に布陣し、有海原で連吾川を前に当てて、武田軍の滝川一益とともに馬防柵の設置を開始しました。織田・徳川連合軍は設楽原周辺のくぼんだ地形を利用して、武田軍から大軍が見えないように配置したと言われています。一方、織田勢…
…ては野田城→吉田城→岡崎城と進んで家康の本拠地を侵攻し、そのあとで浜松城を攻め取るか、家康を服従させるつもりだったのかもしれません。いずれにしても武田信玄のほうが戦巧者だったのは明らかです。 一方の家康はなぜ兵力差があるのに打って出たのでしょうか? 信玄を見過ごせば求心力を失ってしまうとか、信長に示しがつかないとかいろいろと言われていますが、最新の説では信玄が堀江城を攻め落とす動きを鮮明にしたためと考えられています。つまり、浜名湖の水運をとられてしまうのを阻止するために打って…
…形で浜松城を築城し、岡崎城から居城を移しています。武田の遠江侵攻に備えるためと考えられていますが、武田と同盟していた浅井・朝倉と対立し、それは武田との対立を意味しているのですが、それを予測して浜松へ移ったのかもしれません。 家康の活躍で勝利 -姉川の戦い- 姉川の戦いの布陣図(国土地理院地図をもとにたかまる。が作成) 浅井軍5,000、朝倉軍8,000が姉川の北岸、野村・三田村に布陣します。一方の信長軍は「陣杭の柳(じんごのやなぎ)」に、家康は近くの岡山に布陣しました。姉川を…
…の岡崎松平氏を攻めて岡崎城を奪い、ここを拠点とした。以来、合戦を繰り返して勢力を拡大し、もともとの西三河だけでなく東三河、さらには尾張にまで進出。織田信秀(信長の父)とも戦っている。 ところが、清康はその戦いの中で突如として死んでしまう。尾張・守山城を攻めている最中、家臣・阿部弥七郎(正豊)に殺されてしまったのだ。これを「守山崩れ」と呼ぶ。弥七郎が突然主君を殺したのは、陣中で馬が逃げる事件があり、その騒ぎを「父が処刑される!」と勘違いしたのが原因であったという。なお、この事件…
…を脱出し、20日夜に岡崎城下に逃げ延びたと言われます。 岡崎城入城と三河平定 家康時代は岡崎城に入城したときはどんな心境だったのだろうか 三日後の23日、岡崎城にいた今川兵が逃げ去ると代わりに元康が入城しました。ここで元康は選択に迫られたことでしょう。今川家に従って織田氏と戦うのか、織田氏に寝返って今川家と戦うのか、それとも独立するのか。元康は、今川義元の嫡男氏真には織田に対する守りは任せてほしいとの書状を送り、西三河の織田方の拠点となっていた挙母(こもろ)、梅坪などを攻め、…
…寺に移動して今川方の岡崎城撤退を待つ 23日に岡崎城に入城、4日も待っている →死のうとしたとか「厭離穢土欣求浄土」のエピソードは創作か? 大樹寺の「大樹」=将軍の意味らしい(磯田先生の話) 今川から独立する? 岡崎城主・元康を氏真が容認(岡崎復帰) →もう19歳だし、もともと間接統治だったしな 元康は西三河の平定に乗り出す 8月、長尾景虎の関東侵攻があり氏真は北条の支援を優先して元康の西三河への支援ができなかったのも離反の一因→信長との同盟を前提にした独立なのは事実だけど、…
…ひで)に打ち破られて岡崎城が落ち、広忠は降伏してどうにか許された、というのである。通説ではこの頃の広忠は今川と結びついて織田と戦っていたはずだが、新史料によればもう敗れていたことになる。だから、家康が尾張へ行ったのは誘拐ではなく正式な人質、ということになるわけだ。 さらに「じつはこの時点の広忠(松平)は織田だけではなく今川も敵にしてしまっており、両者の連携により挟み撃ち状態だった」という説も存在する。背景には、今川寄りの人物である松平信孝(まつだいら のぶたか)と広忠の対立が…
…家康生誕の城でもある岡崎城にはじまり、浜松城、駿府城、江戸城と歴代の居城に加えて、京都に築いた二条城と「清須越し」をおこなって城下町そのものから再構築した名古屋城を取り上げて、築城・改修の背景や縄張り、遺構の紹介などをとくに家康との関係を中心に書いていただきました。 事前にたかまる。さんには「まあ1時間程度ですよ」と説明していたんですけど、気づけば2時間半くらい話してましたね。でも見てる人はどうかわからないけど、ぼく自身めちゃくちゃおもしろかったです。見てる方も楽しんでいただ…
…いなど)。浜松城から岡崎城を経由して小牧山城に陣を張っていた家康はなんとか秀吉方を押さえることに成功しましたが、勝ちきるところまではいかず終戦となりました。その後、万が一、秀吉が襲来した場合を想定して守りを固めることが必要となったのです。さらには重臣の石川数正が秀吉のもとへ出奔し、徳川軍の戦略や城の構えまでもが筒抜けになってしまったことも大きな要因となりました。 こうしたことから、秀吉領国からより奥まった位置、つまり駿府への移転による安全確保と、小田原北条氏との連携を強化する…
…(元亀元年)に居城を岡崎城からこの地に移しました。ここには永正年間(1504年〜1521年)ごろに今川氏によって築かれたとされる引馬城がありました。東海道と天竜川本流が交差する要衝に築かれた引馬城は、江戸時代の絵図によれば浜松城の北東部にあり「古城」と記されています。その城域は100m四方で堀や土塁で囲んだ4つの曲輪がある並立的な館城(やかたじろ)だったと想像されます。現在でも土塁などの痕跡が残り、地籍図によっても堀跡が確認できます。浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタル…
家康が生まれた岡崎城。彼の人生はここからスタートし、松平から徳川へと姓を変えたのも岡崎城です。「徳川家康」誕生となったこの城は当時の姿をとどめていませんが、どのような城だったのか、ここでどのような出来事があったのかをたどってみましょう。 岡崎城で生まれ、そして独り立ち 竹千代(のちの家康)は岡崎城で生まれた 出生 家康が生まれたのは1542年(天文11年)12月26日、岡崎城でした。父は松平広忠(ひろただ)、母は於大の方で二人とも10代という若さでした。天文11年といえば、岡…
…月3日まで休業 ○ 岡崎城 愛知県岡崎市 12月29日〜31日は休業 ○ 長篠城 愛知県新城市 城址は常時公開※長篠城址史跡保存館は12月29日~1月3日まで休館 ○ 伊賀上野城 三重県伊賀市 12月29日〜31日は休業 ○ 篠山城 兵庫県丹波篠山市 12月25日~1月1日は休業 赤穂城 兵庫県赤穂市 12月28日~1月4日は休業(本丸・二之丸庭園) ※1月2日〜3日は赤穂市立歴史博物館が臨時開館 竹田城 兵庫県朝来市 休みなしで営業 ※元日の観覧時間は5時~14時まで。1月…
…於大が清康嫡男である岡崎城主・松平広忠のもとへ、その姉である於上が形原城主・松平家広のもとへ、それぞれ嫁ぐことになった。広忠と於大の間には竹千代が生まれ、この子がのちの徳川家康になる。こうして水野氏は松平・今川につき、織田氏と対立することとなったのである。 この経緯については異説もあるのでここに紹介したい。『刈谷水野氏の一研究』(刈谷市教育委員会)によれば、じつは忠政の時代から水野氏と織田氏の間にはつながりがあり、水野・松平の縁戚関係も、信秀の指示によるものではないか、と考え…
…事が起きる。この日、岡崎城に挨拶に来なければならないはずの重臣らが、誰一人として来なかったのである。さらに翌日になっても出仕する者はなく、政務が滞ってしまう。困り果てた忠辰は、蟄居を命じた者たちにも登城するよう要請したが、これも断られてしまった。ついに忠辰は重臣たちに屈することになり、彼らの政権復帰と忠辰の側近らの処罰が行われたのだった。 藩政改革も失敗し、譜代の家臣らから実権を取り戻すことにも失敗した忠辰は、すさんだ生活を送るようになってしまった。これは、重臣たちにとつては…
…月3日まで休業 ○ 岡崎城 愛知県岡崎市 12月29日〜31日は休業 ○ 長篠城 愛知県新城市 12月29日~1月3日は長篠城址史跡保存館が休館 ※城址は見学可能 伊賀上野城 三重県伊賀市 12月29日〜31日は休業 ○ 篠山城 兵庫県丹波篠山市 12月25日~1月1日は休業 赤穂城 兵庫県赤穂市 12月28日~1月4日は休業(本丸、二之丸庭園) ※元日〜3日は赤穂市立歴史博物館が臨時開館 竹田城 兵庫県朝来市 休みなしで営業 ※元日の観覧時間は早朝5時~14時まで。1月4日…
…康が誕生した城である岡崎城天守や、徳川家の葵の御紋が瓦に入っている松山城天守などは黒い城です。一方で、豊臣恩顧の大名である毛利氏の萩城天守や島津氏の鹿児島城天守などは白壁の城であり、どちらが白どちらが黒というわけでもなさそうです。何が違うかと言うと壁の耐久性に対する技術の進歩によるものだと考えられます。漆喰の壁は今でもそうですが高級なため、お金のある大名は白い壁を好んで作ったようです。その他にも城主の威厳を示すためにどちらを使った方がいいのか、ということで判断されたのもあった…
…千代が絶対に必要である。その竹千代を取り戻すために、人質交換ができるだけの重要人物を捕らえてみせたのだ。 これこそが安祥城を攻めた最大の理由であり、雪斎の作戦の肝だったのである。この作戦は雪斎が思い描いたとおりにズバリと当たり、信秀は信広の代わりに竹千代を返す。その竹千代はすぐに義元の元に引き取られ、松平家の拠点である岡崎城には今川の代官が置かれた。 こうして松平は完全に今川の保護下に置かれ、今川家は実質的に三カ国を支配下とした。こうした交渉を行うのもまた、軍師の役目なのだ。