攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

平山城 の検索結果:

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…や石垣を持つお城は「平山城」や「平城」という種類の城で、主に戦国時代末期から江戸時代にかけて作られた形態の城です。 それに対して、諏訪原城は「山城」という種類に分類される城で、天守閣や石垣はありません。代わりに、土を掘って作る「堀」や、土を盛って造成した「土塁」を持ち、自然地形を巧みに活かした土の城です。 城は、敵の侵入を阻むために堀や土塁を設けて区画した砦を起源に持ち、吉野ケ里遺跡(佐賀県)のような弥生時代の環濠集落も城の起源と言われています。1467年(応仁元年)から始ま…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…類 輪郭式平城または平山城 家康にまつわる出来事 太田道灌が築いた城を、1590年(天正18年)に江戸に入った家康が改修。天下普請で築城がすすめられ、慶長期、元和期、寛永期と続いた。 歴代城主 家康→秀忠→家光→家綱→綱吉→家宣→家継→吉宗→家重→家治→家斉→家慶→家定→家茂→慶喜 まとめ 家康は将軍宣下ののちに公儀普請(天下普請)によって江戸において大規模な土木工事を進め、江戸城を総石垣で信長・秀吉の城づくりである「織豊系城郭」と、武田流や北条流である東国の城づくりを融合さ…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…出世城 分類 梯郭式平山城 家康にまつわる出来事 元亀元年に武田侵攻に備えて岡崎城から本拠地を浜松城に移して拡張。地名を「引馬(ひきま)」から「浜松」に変更した。 歴代城主 家康→堀尾吉晴→松平忠頼→高山忠房→太田氏→青山氏→本庄松平氏→大河内松平氏→井上氏→水野忠邦→井上氏 まとめ 武田侵攻に備えたとはいえ、家康が浜松城に居城を移したことは転機になったと言えるでしょう。古城を取り込んで大拡張し、新たに「浜松城」としたのです。武田旧家臣の取り込みによる築城術の進歩も大きな変化…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…龍が城 分類 梯郭式平山城 家康にまつわる出来事 1542年(天文11年)に岡崎城で誕生。人質時代を過ごしたのち、今川氏から独立して岡崎城を拠点とした 歴代城主 西郷頼嗣→松平清康→松平清康→田中吉政→本多家→水野氏→後本多氏 まとめ 岡崎城は家康が誕生した城で、今川の支配から独立した城でもあります。その後は三河を平定して領国経営の拠点としました。そういう意味では徳川家康にとっては特別な存在だったともいえるでしょう。まさに徳川家康の人生がスタートしていった城です。2023年の…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく③――支城を潰され、草木も食い尽くした城・三木城

…城とされた城である。平山城(丘城)に分類される。別所長治(べっしょ ながはる)の代に羽柴(豊臣)秀吉の中国攻めで落城し、その後秀吉の家臣である杉原家次(すぎはら いえつぐ)が代官として入る。関ヶ原の戦いののちに、東軍に味方した池田輝政が播磨に入った際、その家老。伊木忠次(いぎ ただつぐ)が三木城主となった。 長治と秀吉の関係は当初は良好だった。秀吉が織田氏の中国方面司令官として播磨に入ってすぐ、彼の味方に付く姿勢を取ったからだ。播磨でも名の知れた別所氏が織田の傘下に入ったこと…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく②――名将の死で落ちた城・箕輪城

…野氏によって築かれた平山城である。後に武田氏の手にわたり、さらに滝川氏、北条氏、井伊氏が入城して、北条氏・井伊氏の手で拡張と修築が行われたとされている。この城は西上野の重要拠点であり、特に戦国時代中期には長野業政(ながの なりまさ)という名将が拠って立ち、甲斐の武田信玄がたびたび侵攻してきてもそれのすべてを撥ね返していた。それどころか、隙を突いては出陣し、武田側の城を落としていたほどである。彼の主君にあたる山内上杉氏の上杉憲政(うえすぎ のりまさ)は北条氏との争いに敗れる形で…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…利用して築いた壮大な平山城である。この地は秀吉の旧主である織田信長も注目した要地であり、京とは淀川で結ばれ、大坂湾も近くと、政治経済の中心地となれるだけのポテンシャルを備えていた。実際、秀吉の支配化で大坂の地は大いに栄え、江戸時代になっても「経済面の首都」的な地位を保持し続けることとなったのだから、本願寺・信長・秀吉の目は正しかった、ということになる。 防衛拠点として見ても、この地は三方向を川と海によって囲まれた自然の要害であり、かつ巨大な石垣と水堀、全体を大きく取り囲む惣構…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化④兵農分離のせいで?

…った豊臣秀吉に継承され、以後のスタンダードとなっていく。 防御側はそれまで持っていたアドバンテージを失い、もう籠城をし続けても援軍が来なければ(その結果として後詰決戦の形に持ち込めなければ)勝てないことになってしまったわけだ。山城がその価値を失い、平城や平山城に移り変わっていったのもわかる話である。 こうの補足 兵農分離についてはこんな本もあるみたいです。未読ですが、おもしろそうなテーマですね。 兵農分離はあったのか (中世から近世へ) 作者:平井 上総 平凡社 Amazon

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化①経済・政治上の都合から?

…城に代わって、平城や平山城が一般的になってくるのだ。この流れの延長線上に、私たちがよく知る「天守閣を持つ白亜の城」としての近世城郭がある。 どうして山城が姿を消し、平城や平山城ばかりになっていったのだろうか?そこには、いくつかの理由を見出すことができる。これらのうちどれが正解というよりも、様々な要素が絡み合って変化していった、と考えるべきだろう。 もっとも一般的な理解は、「政治・経済上の都合から、山城は使いにくくなった」というものである。先述したとおり、領国を統治するための拠…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史②――統治拠点と防衛拠点

…は平城、後者の場合は平山城と呼ばれる(丘にある城を「丘城」と呼ぶことも多い)。丘や平地では地形効果を期待できないために、防御能力としてはやや劣りがちだ。しかし、戦国時代も終わりに近づいた時代の平城は、無数の堀や石垣、櫓によって強固な防御を形成しており、その守りの堅さはけして山城に劣るものではなかったのでは、という見方もある。城とは呼ばれずに「館」あるいは「城館」などと呼ばれるケースが多いものの、本書では城のひとつとして数える。 もうひとつは高地性集落、朝鮮式山城、南北朝期の山…

【お城の基礎講座】89. 三大連立式天守(さんだいれんりつしきてんしゅ)

…丈です。連立式天守は平山城の小高い山の上に立てられることが多いですが、和歌山上も下から見上げると天守群がとても大きく見え、圧倒的な存在感を示しています。 松山城(まつやまじょう) 松山城ももちろん連立式天守なので、大天守週に2基以上の小天守が連結しています。元々は五重天守として作られたそうですが、寛永19年(1642)に三重の天守に改築されました。その後、天明4年(1784)に落雷で焼失してしまいました。現在の天守は、安政元年(1854)に再建されたものです。松山城は標高13…

【お城の基礎講座】87. 三大海城(さんだいうみじろ)

…は山城(やまじろ)、平山城(ひらやまじろ)、平城(ひらじろ)という分類がありますが、それとは別の概念として海城(うみじろ)というのがあります。湖や海に接するところに築かれた城です。三大海城と呼ばれるものに、高松城(たかまつじょう)、今治城(いまばりじょう)、宇和島城(うわじまじょう)があります。今回は、この三大山城をご紹介します。 三大海城 三大海城と呼ばれているのは 高松城(たかまつじょう、香川県高松市) 今治城(いまばりじょう、愛媛県今治市) 宇和島城(うわじまじょう、愛…

【お城の基礎講座】85. 三大平山城(さんだいひらやまじろ)

…く)で最も多い形態の平山城(ひらやまじろ)のなかで、姫路城(ひめじじょう)、松山城(まつやまじょう)、津山城(つやまじょう)が三大平山城と言われています。名城と呼ばれる城が多く見られる平山城ですが、今回は三大平山城について見ていきたいと思います。 三大平山城 三大平山城と言われるものは、 姫路城(ひめじじょう、兵庫県姫路市) 松山城(まつやまじょう、愛媛県松山市) 津山城(つやまじょう、岡山県津山市) です。ここでは名城と言われる三大平山城を紹介します。 姫路城(ひめじじょう…

【お城の基礎講座】75. 織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)

…ました。これが広大な平山城(ひらやまじろ)や平城(ひらじろ)を居城とするきっかけとなりました。信長独自の本格的な築城は愛知県にある小牧山城(こまきやまじょう)がスタートだと、近年の発掘調査からわかってきています。その後、岐阜城(ぎふじょう)の改修にあたっても中世城郭(ちゅうせいじょうかく)の特徴の一つでもある山麓と山頂部分での二元構造を維持しながら、新しい取り組みをしていることも近年の発掘調査から分かっています。そして安土に移って安土城で近世城郭の完成を見たのです。それらは、…

【お城の基礎講座】69. 城下町(じょうかまち)

…考えられます。それは平山城や平城の普及に伴って城の周囲に町が作られて発展しました。戦国時代、城攻めの時にはまず初めに城下町が焼き払われました。町があると城を攻めるのに邪魔になるからです。また町に住む人々は城を攻める側にとっては敵となり得るからです。 城下町は現在の都市の元 近世城郭になると城の外側には必ず城下町が作られました。そして現代の都市の多くはこの城下町をもとにして発展してきています。そのため今私たちが住んでる街を考える時にお城と城下町というのはある意味ではルーツとも言…

【お城の基礎講座】56. 土塁(どるい)の構造

…らです。中世の山城や平山城の場合、自然の地形を生かしたものがあり、特に自然の地形を切り崩して土塁としたものは「切岸」(きりぎし)と呼ばれています。 土塁の名称 土塁の名称は、次の通りです。土塁の上の部分を「褶(ひらみ)」、底辺を「敷(しき)」、斜面を「法(のり)」といいます。城の内側の法を「内法(うちのり)」、外側の法を「外法(そとのり)」といいます。土塁の上の部分の褶(ひらみ)は「馬踏(まぶみ)」とも呼ばれ、兵士や馬が動き回る場所です。ここに塀や柵を造った場合の内側の平坦な…

【お城の基礎講座】54. 空堀(からぼり)

…ぼり)です。山城から平山城・平城へと変化していった近世城郭でも空堀は進化し続けました。今回はその空堀について、学んでいきましょう。 中世の空堀 山の上の堀 中世の城はほとんどが山城でした。山城の築城術として、城域に敵を入れないようにするために土塁(どるい)を高くしたり、深い堀を掘ったりしました。こうして作られた堀は水のない空堀(からぼり)でした。山の上では水を溜めておくことができないからです。中世の空堀にはいくつかパターンがあります。以下に紹介していきたいと思います。 堀切(…

【お城の基礎講座】53. 水堀(みずぼり)

…ていきました。山城や平山城では堀に水をためることがあまりできませんが、平地であれば川などから水を引いてくることができました。また、堀を掘れば自然に水が湧いてくることもありました。かつては水堀を「濠」、空堀を「壕」と書いて区別していたようです。絵図を読み解くときに役立つかもしれませんね。 大坂城の内堀。たくさんの水がためられた水堀で堀幅も広い 何重もの堀 近世の城郭では堀を何重にも巡らすことが多かったです。二重の場合は内側から内堀(うちぼり)、外堀(そとぼり)と呼ばれました。三…

【お城の基礎講座】52. 曲輪(くるわ)の名前

…な呼び方です。山城や平山城によく見られます。 水の手曲輪(みずのてくるわ)・井戸曲輪(いどくるわ) 井戸などの水源を含む曲輪の一般的な呼び方です。 その他 太鼓丸、鐘丸、馬屋曲輪などの名前もあります。 まとめ 曲輪の名前には本丸、二の丸、三の丸などや、方位名がついた西の丸、東の丸、役割の名前がついた水の手曲輪などがあります。城郭によって名前の付け方に特徴があるところがありますので、それらを比較してみてもおもしろいでしょう。ということで、曲輪の名前についてのお話でした。じゃあね…

【お城の基礎講座】51. 縄張り(なわばり)の三つの基本形式

…ります。近世の平城や平山城に多いです。例としては、 弘前城 小田原城 岡山城 などがあります。どれも背後に川や山があります。 連郭式(れんかくしき) 本丸と二の丸、三の丸を一直線に並べた形の縄張を連郭式(れんかくしき)といいます。串団子のような形なので、たかまる。は「だんご三兄弟縄張」と呼んでいます。本丸の三方が外と直接に接するため、守りは手薄になりがちです。山の尾根に築く山城や平山城に多く採用されています。例としては、 盛岡城 水戸城 大垣城 犬山城 彦根城 高知城 などが…

掛川城 今川氏の終焉をむかえた城

…城は竜頭山に築かれた平山城で、東には逆川が流れる要害の地にあった。 天下布武 | 掛川炎上[掛川城] 時代が流れ、掛川城主は泰煕の孫・朝比奈泰朝となっていた。彼の一族が仕える今川氏も今川氏真に代替わりしていた。氏真の父である今川義元は1560年(永禄3年)に起きた「桶狭間の戦い」で尾張の織田信長に敗れて討死している。若くして嫡男の氏真が跡を継いだ。が、前途多難であった。1562年(永禄5年)には、それまで今川氏に仕えていた三河の松平元康(徳川家康)が織田氏の力を借りて独立を図…

【お城の基礎講座】1.城の立地 - 山城・平山城・平城

…立地によって、山城・平山城・平城の三つに分けられます。犬山城は平山城に分類されます。尾張や美濃の他のお城はどうでしょうか?一緒に見てみましょう。 立地による分類 城は立地によって、 山城(やまじろ) 平山城(ひらやまじろ) 平城(ひらじろ) の三つに分けられます。順番に見ていきましょう。 山城 山城は山や丘の山頂付近を利用して造られた城で、桃山時代以前に作られた中世城郭と呼ばれる城に多く見られる立地です。山に造られたため、堀に水を貯めておくことが困難なので空堀がほとんどでした…

琉球における築城の名人・護佐丸が築いた座喜味城を取材してきました

…場合は駿府城や広島城など平城が軍の駐屯地として転用されることが多く、平山城や山城が軍事利用されることはほとんどなかったですが、沖縄の場合はむしろ見晴らしのいい丘にあるグスクが日本軍にも米軍にも利用されたので、城址が刻んできた歴史についても考える機会になりました。 座喜味グスクは戦後、最初に整備されたということもあり、いままた保存活用計画を検討されているそうです。コンパクトだけど見ごたえのあるグスクなので、ミュージアムとあわせてぜひ訪問してみてくださいね。 kojodan.jp

たかまる。さんの丸岡城シンポジウム「ここまでわかった!お天守の新しい知見と謎」参加レポート

…てきており、山城から平山城、平城に移行していたこと 田島川の船運に優れていて、小高い独立丘陵にあった丸岡が選ばれた 周りが深田、低湿地であったこと(城づくりに適した土地が丸岡の小高い山だった) 丸岡城の上からだと北側がよく見えて、敵の動きが一目瞭然であったこと 西側も同様によく見え、海側の動きを見るためには適していること 本城である北ノ庄城を守るために川を挟んだ場所にあること これらが丸岡が選ばれた理由ではないかとのディスカッションでした。 天正期に天守はあったか? 天正4年…

城の分類(平山城と山城の境界線)

お城には「山城」、「平山城」、「平城」といった分類があります。 これらは江戸時代の軍学者によって考えられた地形による城の分類法のひとつなのですが、もっとも一般的な分類ですね。 ざっくりいうと平地にある城が平城、高い山頂にある城が山城、その中間の小高い丘にある城を平山城と呼ぶわけですが、その境界がよくわからないんですよね。 たとえば「山城」に分類されることが多い安土城の公式パンフレットには、以下のように「平山城」の表記があります。 ここで注目したいのは 標高199mの安土山に築…

浜松城 のちの天下人が絶体絶命の危機に陥った戦い

…地の南東端に作られた平山城である。近世城郭として1577年(天正5年)に建てられた。それ以前、この地には今川氏親の家臣・飯尾乗連(連竜)が築いた引馬城があった。乗連の子・乗竜が城主をしている頃、家康に追われ、家康の支城になったと伝わっている。その後、引馬城を取り込む形で浜松城が築城されたわけだ。 ナンダー | 葵の御紋と桜と城[浜松城] 家康はこの城で29歳から45歳までの時を過ごしている。天下人となる家康を形作った城といってもいいのではないだろうか。この城にいる時に家康が命…

三木城 長期籠城の末に飢えた城

…)は丘の上に築かれた平山城(平野の中にある山、丘陵を利用して建てられた城)である。別所氏は赤松氏の一族であり、播磨の東部を支配していた。 そこに一石を投じたのが、尾張の戦国大名・織田信長であった。信長は各地に家臣を派遣して、領地の拡大を図っている。中国地方の平定を任されたのが、信長の家臣・羽柴秀吉だ。だが、いきなり中国地方に行けば、播磨の諸将に後ろから攻撃されることにもなりかねない。まずは中国地方への玄関口である播磨の攻略が急務となった。 といっても、秀吉が中国地方の平定を任…

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