徳川吉宗 の検索結果:
…たが、元は8代将軍・徳川吉宗(とくがわ よしむね)について紀州藩からやってきた身分の低い武士の家系に過ぎず、将軍の寵愛以外に確たる政治基盤をもっていなかったのである。そのため、1786年(天明6年)に家治が死ぬと彼の権力は一気に崩壊へ向かった。 その徳川家治が病に伏せった時、奥医師の治療では一向に回復しなかった。そこで田沼の推薦で別の医者に交代することとなったのだが、治療法が合わなかったのか家治の病状は急に悪化してしまう。再び医師を代えたが、家治が完治することはなく、ついに亡…
…おなじみの8代将軍・徳川吉宗は徳川将軍家の直系ではなく、紀伊徳川家の生まれである。そのため、本来ならば将軍になるはずがなかったのに、家継の夭折が彼にチャンスを与えたわけだが――実は、吉宗将軍就任までにはそのほかにも度重なる幸運があった。本連載のテーマである「人事」にもつながるところがあるので、紹介しよう。 吉宗は紀伊藩主である徳川光貞(とくがわ みつさだ)の子ではあるが、庶子であり、しかも母の身分が低かった。城の湯番をしていて見初められたというから、おそらくは下女であったろう…
…将軍となる紀伊藩主・徳川吉宗であり、彼の将軍就任からまもなく、詮房と白石は幕政から追われることになってしまった。もともと家格による裏づけがない人物が、将軍による信任をバックボーンに幕閣の中枢にいたわけで、それを失えば追われるしかないのは、柳沢吉保のケースとまったく同様である。 詮房はその後、越後国村上藩に移され、3年後に死去。息子の代になってさらに越前国鯖江藩に移され、石高は変わらず5万石だったものの家格は「城主」から「無城」へ落ち、これにともなって収入も大きく減ったとされる…
…」といい、8代将軍・徳川吉宗の登場までしばらく続くこととなる。これほど重要な役職を任せただけに、綱吉はずいぶん彼を信用し、また厚遇したようだ。直臣になった際に1万3千石であった所領は加増を繰り返し、最終的に7万3千石にまでいたっている。 綱吉がたびたび彼の屋敷を訪れたのも、またふたりの養子を取らせて厚遇したのも(残念ながらこのふたりは若死にしている)、将軍からの寵愛の度合いを示している、と考えていいだろう。綱吉が脇差や白銀などを成貞に与え、そのお礼として成貞も太刀や馬などを献…
…えあった。8代将軍・徳川吉宗の時代、緊縮財政を強力に推し進める幕府に対し、時の尾張藩主・徳川宗春は真っ向から反対する姿勢をとった。すなわち、華美で贅沢な振る舞いを押し止めるどころかむしろ奨励したのだ。これによって宗春の本拠地である名古屋は、当時火が消えたようになっていた日本で唯一、歌舞音曲が絶えなかった。 このことを「名古屋が繁栄するようになった始まりである」と主張する声もあるが、やはり幕府としては許せないことだった。ひとつには、尾張徳川家と紀伊徳川家(吉宗は紀伊藩主だった)…
…ことを訴えることが効果をもたらすと判断していた。 そこで里人は、「周防徳山領百姓中」と署名した三通の嘆願書を江戸に送り、投げ文という形でいかにも百姓たちの素朴な思いの発露であるかのように演出し、徳山藩の再興を訴えた。タイミングのいいことに、将軍が8代目の徳川吉宗に交代していたこともあって、幕府の態度は軟化していた。結果、1719年(享保4年)元次から次男の元堯に家督を相続することが許され、徳山藩は復活する。 その後、徳山藩は6代にわたって毛利家が藩主を務め、明治維新を迎えた。
…も熱心だった。祖父・徳川吉宗も彼の将来に期待するところ大で、孫の教育には自らかかわった、という。たとえば、こんなエピソードがある。あるとき、彼が吉宗の前で「龍」の字を書いていた。しかし、紙にはもう文字が収まらない。周囲の心配をよそに、家治は最後の点を紙からはみ出して畳に落とした。その壮大さには、名君・吉宗も大いに感心したという。 別の話もある。ある小納戸役(将軍の身の回りの世話をする役職)が、家治に「お前は隣家のものとうまくやっていて結構なことだ、私には隣のもののことはさっぱ…
トントン拍子の大出世 幼名は源六・新之助、初名は頼方(よりかた)。御三家のひとつ紀伊藩徳川家からさまざまな奇縁が絡み合ってついに将軍にまでなりおおせた強運の将軍。 吉宗の父は紀伊藩主・徳川光貞(とくがわ みつさだ)だが、母・於由利の方の素性については諸説あって不明だ。ただ、両親の出会いは「藩主が城の湯番の女に目をつけた」というものだったらしいから、彼女は下女だったはずだ。あまり美人ではなく体が大きかったといい、その血を継いだか吉宗も健康的で頑強な体の持ち主だったという。 彼の…
…特に別格の存在として「御三家」と呼ばれた。御三家はときに幕政へ介入するようなこともあり、また宗家が途絶えた際にはこの中から新たな将軍が選ばれたのである。 この御三家に準じる存在として江戸時代半ばに立てられたのが、8代将軍・徳川吉宗のふたりの子(田安・一橋家)と9代将軍・家重の子(清水家)の「御三卿」である。彼らは独立した藩というよりも将軍の身内という扱いで、江戸城内に屋敷を与えられ、領地も明確ではなかった。家臣には幕臣からの出向者が多く、家臣構成からみても特殊な存在であった。
…辰の祖父は8代将軍・徳川吉宗に仕えていた水野忠之であり、彼は江戸幕府3大改革のひとつに数えられる享保の改革の前半期を指導した人物だ。忠之に可愛がられていた忠辰は、その改革にまつわる苦労話もよく聞かされていたらしく、その影響から藩政改革に意欲的だった。しかし重臣たちは忠辰に幕閣としての活躍を望んでいたようで、その気持ちのズレがやがて両者の溝を深くしていくことになる。 忠辰が藩主に就任した時、岡崎藩は相次ぐ災害などが原因で財政難に陥っていた。そこで忠辰は財政改革を行い、自ら粗末な…
…戸にいればよかった。領地で朝鮮や北方外交に注力することのほうが重要とされたからである。 江戸時代後期の諸改革や幕末の混乱は、この参勤交代制度にも影響を与えている。徳川吉宗の「享保の改革」では1722年(享保7年)、在府半年・在国1年半と江戸にいなければいけない期間が短縮されている(のちに元へ戻されている)し、幕末の1862年(文久2年)には「3年に1年または100日の在府、妻子も在府・在国どちらでも自由」と大幅に緩和されているのだ。 次回「(4)出世と譜代大名」につづきます。
…てきたが、8代将軍・徳川吉宗以降は改訂されず、幕末に至った。武家諸法度は「武士・大名はどのように振る舞うべきか」を定めたものであり、武士の心構えから、具体的な制約・行動規則までその内容は多岐にわたる。たとえば最も有名な第1条の「武芸や学問をたしなむこと」。通説では学問の重要性を説いたとされるが、むしろ武を強調し、武士が軍事階級であることを忘れないようにという意味があったとの説が有力である。また「倹約を心がけること」「藩政を清廉に保ち、法を違えず、国を衰退させないこと」といった…
…日鳳上人が8代将軍・徳川吉宗の病気平癒を祈り、その効果があったことから以来、将軍家の祈願所にもなりました。境内の墓地には山中鹿之介の墓、本堂脇には徳川家康の二男・秀康の正室である蓮乗院(れんじょういん)の石廟があります。寺宝には狩野元信筆の日蓮上人画像などがあります。 本満寺の御朱印は寺務所でいただけます(9:00~17:00、年中無休)。ちなみに日蓮宗では御朱印とは呼ばず、「御首題」もしくは「御題目」と呼ばれます。 御朱印帳もわけて、日蓮宗用に御首題帳を用意される方もいます…
…見の風習は、8代将軍徳川吉宗が主導した「享保の改革」の一環として、隅田川堤(向島)や飛鳥山(王子)、御殿山(品川)などにサクラを植樹して、さらには花見客用の飲食店までつくらせて、庶民の花見を奨励したのがはじまりといわれています。 なんと徳川吉宗だったんですね。暴れん坊将軍です。 「享保の改革」は米価や物価の安定政策、貨幣政策のほか、町火消しの創設や目安箱の設置などが教科書によく出てくる施策ですが(小石川養生所をつくったとかね)、たとえば隅田川堤のサクラは治水対策として植えさせ…
…川家より第8代将軍・徳川吉宗が迎えられましたが、吉宗は家継にとって「はとこ大おじ」にあたります。自分の「はとこ大おじ」なんて誰かも知らなければ、会ったこともないですよね。 さて御三家について少し解説しましょう。といってもぼくもおぼえたてなんですけど。徳川御三家は元々、徳川宗家(=将軍家)の後嗣が絶えたときに備え、家康がつくっています。「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」といわれていて、御三家の中でも水戸家はちょっと格下扱いです(でも徳川姓を名乗ることや三…