攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

徳川秀忠 の検索結果:

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…ら内大臣に昇進させ、徳川秀忠の娘、つまりは自分の孫である千姫(7歳)を秀頼(11歳)と結婚させました。さらに2年後の1605年(慶長10年)に将軍職を秀忠に譲ると秀頼を右大臣に昇進させました。このように豊臣公儀と徳川公儀の二重体制を維持し、豊臣と徳川の一体化を図る動きさえ見せていたのです。 しかし、家康がなくなったあとの徳川家を考えたとき諸大名が徳川に臣従するかが不透明であり、豊臣との二重体制を解消、つまりは秀頼を臣従させておく必要が出てきたのです。しかしすぐには行動に移しま…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…とは別に家康の三男・徳川秀忠が、徳川軍の主力を率いて中山道を進んでいたが、なんとこの兵力が関ヶ原の決戦に参加することはなかった。信濃を進軍中に西軍・真田昌幸が籠もる上田城を攻撃したものの、昌幸とその子の幸村(これは通称で、実際の名は信繁)の知略に翻弄されて攻め落とせず、ここで時間を浪費したこともあって決戦に間に合わなかったのだ。 この遅刻に関しては、家康は最初から主力部隊を温存するつもりだったという説や、命令や天候のタイミングから考えて、元々間に合うはずがなかったといった秀忠…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…り間違って時の将軍・徳川秀忠、あるいは実権を握る大御所・徳川家康が倒れるようなことがあれば、いよいよ諸大名の蜂起が相次いでもおかしくない――こんな計算も豊臣方にはあったかもしれない。情勢は幕府側圧倒的有利ではあったが、まだまだ波乱が起きる余地はあったのだ。 このような事情を抱えつつ始まったのが「大坂冬の陣」である。当初、籠城側は大坂湾からの攻撃にも警戒し、城の西方にある木津川口に砦を築いて敵を迎え撃つ準備をしていた。この砦は緒戦で落とされ、大坂城は四方を包囲されてしまったもの…

【クーデターで読み解く日本史】鬱積した浪人たちのエネルギーが暴発した事件――由井正雪の乱(慶安の変)

…亡くなり、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光と順調に代替わりが行われ、支配体制が完成に向かっていったのが江戸時代初期である。 さて、その家光が亡くなった1651年(慶安4年)の頃、江戸で問題になっていたのが浪人問題であった。関ヶ原の戦い以来、幕府に逆らったり、落ち度をとがめられたり、そして跡継ぎがいなかったりといった事情で数多くの大名が改易され、残った諸大名も経済的な圧迫を受けて新たな家臣など雇えない状態にされていた。これは徳川氏の支配を安定させるために有効な手段ではあっ…

【クーデターで読み解く日本史】天下泰平のための犠牲――大坂の陣

…年でその地位を息子の徳川秀忠に譲りつつ、自らは大御所として実権を掌握する体制を構築する。これは名目だけでもトップが交代することで「天下人としての家康の立場は、幼い秀頼の代わりに預かっているのではなく、徳川氏のものだから息子に譲るのだ」というアピールにほかならない。 逆に言えば、そのように示さなければならないほど、「秀頼が成長したら天下は豊臣氏のもとに戻り、徳川は再び屈服しなければならないだろう」と考えるものが多かったわけだ。そこで家康は豊臣氏を挑発し、戦いへ持ち込む策を打った…

【殿様の左遷栄転物語】駿河大納言の悲劇に巻き込まれた付家老たち

…顕著なのが2代将軍・徳川秀忠の子で3代将軍・徳川家光の弟にあたる徳川忠長(通称・駿河大納言)にまつわるケースである。この忠長は幼い頃より利発で秀忠に寵愛され、一時は兄・家光に代わって将軍職を継ぐのでは、と見られていた時期もあったとされるほどだ。 実際には家光が跡を継いだのだが、その背景には長子相続を貫きたい家康の介入があったとされる。本連載第2章で紹介したように、本来継承する予定でなかった人物が(事情があったとしても)家督を継ぐと後世に禍根を残しかねない。太平の時代にあっては…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

…た。彼は当時の将軍・徳川秀忠から一字を貰い受けて忠広と名乗ったが、まだ幼いので幕府によって派遣された藤堂高虎が後見人を務め、藩政は五人の家老による合議制で執り行われることになった。 しかし、秀吉の下で苦労を重ねながら戦ってきた清正ならばともかく、忠広には熊本藩54万石を維持するのはやはり無理があったらしい。その後、この藩では次々と事件が起きることになる。1618年(元和4年)、内紛が起きた。家老の加藤美作派と、同じく家老の加藤右馬允派が主導権をめぐって対立したのである。これを…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…た。これが時の将軍・徳川秀忠の怒りをかい、1619年(元和5年)、ついに福島家は改易ということに相なってしまったのである。とはいえ、この時は減封・転封止まりで、所領をすべて没収というわけではなかった。正則は信濃・越後国内にあわせて4万5千石の領地を与えられ、息子の忠勝とともにそこで蟄居することになった。 幕府のこれらの対応に関しては、正則が豊臣の重臣だったことや西国の外様大名らと親交があったことから、警戒されて取り潰しにあったものと考えられている。逆にいえば、彼ら外様大名たち…

足利家の通字はなぜ初代「尊氏」に含まれない「義」なのか

…人物であることがわかったりもします。たとえば本多忠政・蒲生忠郷・京極忠高・加藤忠広・伊達忠宗など江戸時代初期の大名のほとんどに「忠」の字がついてますが、もちろんこれは2代将軍・徳川秀忠の偏諱によるもので、人名の情報量もなかなかのものですよね。 じつはこの将軍家の通字の話は編集でカットしたのですが、名前から縦のライン(=一族)と横のライン(=時の権力者)が見えてくる、ということを意識するとややこしい人名も少し興味が増してくるのではないでしょうか。 www.youtube.com

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…きを受けて時の将軍・徳川秀忠に謁見したことからだった。まず5千石を受けて旗本の書院番頭となり、その後、陸奥棚倉に1万石(後に3万石へ加増)を与えられて大名に復帰したとされるが、この過程については諸説あるのが実際のところだ。もともと積極的に敵対していたわけではないこと、宗茂の武名を惜しんだこと、各方面からの働きかけ(加藤や黒田といった諸大名はもちろん、冒頭に紹介した本多忠勝との親交なども有利に働いたかもしれない)があったことなどが再興の要因だったろう。 旧領時代の家臣団の多くは…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府3代・徳川家光――江戸幕府を完成させた生来の将軍 1604年~1651年

…23年(元和9年)、徳川秀忠は自らの次男・家光に将軍職を譲り渡した。新たな将軍となった弱冠20歳の若者は、広間に居並ぶ諸大名に対して宣言する。すなわち、「祖父家康と父秀忠は、諸大名の力を借りて天下人となったので、同格の礼で応えてきた。だが、私は生まれながらの将軍であり、お前たち諸大名は家臣である。そのように扱うことに不満があるなら、領地に戻って戦う準備をしろ」――このようなことを言ったわけで、これはもう堂々たる王者の言である。 この年には豊臣家が滅んでから10年弱が経っていた…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

天下分け目の大失態 初陣での大失態や、父・徳川家康が生きていたころは政治の実権を握られていたこと、気丈な妻に頭が上がらなかったとされることなど、少々情けないイメージのある2代目。しかし、この秀忠の時代に諸大名の統制や幕府の機構確立が進み、地味に見られながらも2代目としての役割をしっかり果たした将軍という評価がされている。 秀忠は徳川家康の3男である。にもかかわらず嫡男に選ばれ、将軍にもなったのは、長男・信康が亡くなり、次男・秀康が他家へ養子に出ていたからだ。しかし、この地位が…

【戦国時代の境界大名】柳生氏――めまぐるしく変わる情勢の中、一芸に活路を見出す

…覚ましい。2代将軍・徳川秀忠の兵法指南役を務め、1615年(元和元年)の「大坂夏の陣」においては秀忠の本陣を守って7人もの敵を瞬くうちに斬り捨てたというから、父以来の剣術の腕も大いに評価されていたようだ。 しかし、宗矩の真価は将軍側近、相談役としてのそれにあった。三代将軍の家光は彼にとっても兵法指南役であった宗矩に大いに敬意を示し、重用したのである。総目付(のちの大目付)として諸武家の監察・監視という困難な任務を与えられた宗矩は、この期待に見事に応えた。結果、柳生氏は1万25…

【戦国時代の境界大名】諏訪氏――武田に滅ぼされた名族がその出自故に蘇る!

…ヶ原の戦い」において徳川秀忠に付き従い、真田攻めや上野高崎城(群馬県高崎市)を守るのに功績を上げた。それを評価され、1601年(慶長6年)に父祖の地である諏訪に2万7千石を与えられる。慶長3年に当時の領主が新規築城した高島城(諏訪市)を本拠としたため、信濃高島藩となった。 その後さらに5千石を加増されるが、うち2千石は頼水の孫の忠晴の時に弟2人に1千石ずつを分け与えて分家させたことから、高島藩3万石の譜代大名として幕末まで続いていくことになる。幕末には諏訪忠誠が若年寄兼外国御…

【江戸時代のお家騒動】越前騒動 市川雷蔵主演映画にもなった史上名高い殿ご乱行

…ら「父・秀康は将軍・徳川秀忠の兄として本来なら将軍職を継ぐべき人間だった」というプライドも、そこにはあったかもしれない。 それからの忠直の行動は芳しくないものとなっていく。1618年(元和4年)には大名の義務である参勤を怠るようになった。素行も悪くなり、近習を手打ちにすることもあったそうだ。このような彼の振る舞いについては大名たちの間でも評判になっており、いくつかの書状に彼がわがままに振る舞っていたことが記されている。 また、女性関係も派手になり、妾が数百人いたという。中でも…

【江戸時代のお家騒動】越後騒動 家康のひ孫が当事者となった後継者争い

…康、そして三男である徳川秀忠の孫にあたり、御三家に次ぐ名誉ある血筋を引く人物であった。それだけに、この事件は注目されることとなったのである。 事件の発端は光長の嫡子が亡くなり、後継者を巡る争いが起きたことだった。家老の小栗美作は光長の異母妹を妻にしていたことから、わが子の小栗掃部を藩主にしようと企んだという(反対派による流言とも)。これに対し、荻田主馬は光長の異母弟である永見大蔵を立てて、これに対抗した。この争いの背景には、もともと美作の政治が傲慢なもので、多くの敵を作ってい…

【江戸時代のお家騒動】蒲生騒動 藩主夭逝が藩内の混乱を招く悪循環

…長19年)には将軍・徳川秀忠から、揉め事を起こさないよう注意を促す黒印状が2人の仕置奉行宛てに送られ、さらに翌年には国目付が設置されて、お家騒動が起こりやすい藩への監察が行われるようになったため、会津藩もこの監察下に置かれた。 だが、このような幕府の尽力も虚しく、やはり家臣の対立は起こった。今度は仕置奉行の町野幸和と、会津帰途に亡くなった蒲生郷成の子である郷喜・郷舎兄弟が対立したのだ。この時は国目付の報告によって家康が裁決するところとなり、郷喜・郷舎兄弟らが家禄を没収され改易…

【江戸時代のお家騒動】鍋島騒動「猫化け話」に象徴される龍造寺家の悲劇

…いで高房が次期将軍・徳川秀忠に仕えるようになる。しかしこのことは、龍造寺家の形骸化をさらにはっきりさせることになった。高房が江戸詰めになったところで、領国の運営には問題なかったからだ。 このような状況に、高房は当然ながら不満を抱き、龍造寺家の再興を果たそうとした。しかしその2年後には、勝茂が家康の養女を要って徳川家との結びつきを強め、さらに江戸城や駿府城の手伝い普請も命じられている。どんどん勢いを伸ばしていく鍋島家に、高房は家の再興を絶望的に思ったのだろう。そして起こったのが…

【江戸時代のお家騒動】宇都宮釣天井事件ーー秀忠派が長安事件の復讐を果たす?

…主要人物】本多正純、徳川秀忠、加納殿 大御所家康の懐刀・本多正純の絶大な権力 本多正純は、父の正信とともに幕政の中心を担っていた人物である。幼少期より徳川家に仕え、徳川家康が秀忠に将軍職を譲り大御所として駿府に移った時も、家康に伴われて駿府城に入っている。正信や大久保忠隣といった重臣でも秀忠を補佐するため江戸に残されたことを考えれば、家康が正純を駿府に伴い傍に置いたことは、彼にいかに大きな信頼を寄せていたかをうかがうことができる。 この頃の徳川家は、駿府の大御所・家康と江戸の…

【江戸時代のお家騒動】里見騒動ーー大久保長安事件のとばっちりと見せしめの改易

…主要人物】里見忠義、徳川秀忠 大久保忠隣との姻戚関係が仇となる 大久保長安事件と、それに続く大久保忠隣の失脚。これのとばっちりを受ける形で改易処分となったのが、外様大名・館山藩主の里見忠義である。忠義は10歳の時に父・義康が亡くなったため、幼くして里見家を継ぐこととなった。しかし若年ながらも、重臣たちの補佐を受けて領内の検地や諸役の免除を実行。また商業の面でも、領内における貨幣の交換比を定めるなど、数々の政策を執り行った。 そんな忠義が結婚したのは、1611年(慶長16年)の…

【江戸時代のお家騒動】大久保長安事件ーー幕府中枢の権力闘争が原因?

…戸幕府2代将軍となる徳川秀忠が上田城攻めにあたった時、これに従っていた忠隣の家来が抜け駆けのような動きをしたことに対し、正信が処罰を加えたのである。この出来事を始めとして、以後も2人は家康の後継者などを巡ってことごとく対立。ともに幕府創設の中枢を担いながらも、派閥争いを繰り広げていたのだ。 そして1612年(慶長17年)に起きたある事件により、忠隣を中心とした、いわゆる「大久保党」の勢力が一層増すことになった。それが、岡本大八事件である。ことの始まりは、それから少し遡った16…

初代藩主と藩祖のちがい

…) 保科正之が将軍・徳川秀忠の子だから特別扱い? 会津藩の歴史の大部分を会津松平家が占めているのでその初代として? 今回、藩のデータベースをつくるにあたり、初代藩主と藩祖がちがうケースがあるということで、入力欄は別にわけたものの、いまいちまだ藩祖のルールがわかっていません。 そこで、攻城団にたくさんのコラムを書いていただいている榎本秋先生に聞いてみました。 そもそも藩の成立から見るのではなく、幕末期に存在していた藩主家が起点 ぼくからは「(藩祖について)加賀藩とか福岡藩はまあ…

小谷城 浅井三姉妹が父と暮らした城

…織田軍は支城や城砦を次々落とし、8月13日に救援の朝倉軍は戦意を失って敗走。信長は敗走する朝倉軍を越前まで追いかけ、朝倉氏を滅ぼした。さらに27日からは小谷城への総攻撃を進めた。敗北を悟った長政は28日にお市と3人の娘を信長のもとへ送り、自身はその後自刃。こうして浅井氏は滅亡した。 生き残った三姉妹はその後、長女・茶々が豊臣秀吉の側室となり、三女・江は徳川秀忠に嫁ぎ、豊臣徳川の覇権争いの真っ只中に置かれる。次女・初は小浜城主・京極高次室となり、両者の和議のために奔走している。

『柳生非情剣』『柳生刺客状』ーー柳生を通して描いた時代

…影武者徳川家康』では徳川秀忠に仕える柳生宗矩が中間管理職的に奔走する。なんとなれば、超然としたところのある次郎三郎や島左近、六郎といった人々よりも、人間味が丸出しでかつ作中で成長していく秀忠・宗矩の主従コンビの方が好き、という人だって結構いるぐらいだ。 その隆慶一郎は柳生一族の人々を主人公にした短編を幾つも刊行しており、『柳生非情剣』という短編集にまとまっている。柳生といえば真っ先に名前が出てくるであろう柳生十兵衛を主人公にした「柳生の鬼」や、家光の寵愛を受けたがゆえに悲劇に…

3.戦国大名から外様大名へ

…る。これは2代将軍・徳川秀忠によって定められた13条のものが最初で、代々の将軍によって改訂されてきたが、8代将軍・徳川吉宗以降は改訂されず、幕末に至った。武家諸法度は「武士・大名はどのように振る舞うべきか」を定めたものであり、武士の心構えから、具体的な制約・行動規則までその内容は多岐にわたる。たとえば最も有名な第1条の「武芸や学問をたしなむこと」。通説では学問の重要性を説いたとされるが、むしろ武を強調し、武士が軍事階級であることを忘れないようにという意味があったとの説が有力で…

明智光秀ゆかりの地おすすめ19選

…と再会し参謀になって徳川秀忠や家光にも影響を及ぼした」というものです。 とても面白いし興味がわきますが、実際には年齢を計算すると100歳を越えてしまうので有り得ないとする意見が多いようです。 こんなワクワクする説が出てくるほど実は魅力的な人物が明智光秀という人なのかもしれません。 もし光秀が信長を撃たなかったら信長の野心は拡大を続け、日本の歴史も大きく変わっていたかもしれません。 また明智光秀もここまで重要な歴史的人物になっていなかったかもしれません。 2020年のNHK大河…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…川家康から、2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕え徳川家の厚い信頼を得ていました。 寛永12年に家光が参勤交代制を発布し「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べると、政宗はいち早く進み出て 「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、誰も反対できなくなったと言われています。 健康に気を使う政宗でしたが、晩年は体調不良を訴え始め病気がちになります。 1636年4月、参勤交代に出発した政宗は急に病状を悪化させ宿泊した郡山では何も食べられなくなり江戸に入っ…

かつての王都・浦添グスクと浦添ようどれを取材してきました(伊祖グスクも)

…にいた尚寧王は将軍・徳川秀忠に謁見するために江戸まで連行されるという仕打ちを受けます。 西室再現コーナーは必見 この「浦添グスク・ようどれ館」最大の見所は「浦添ようどれ」の「西室(せいしつ)」の再現コーナーです。本物の浦添ようどれは内部が非公開となっていますが、ここにはかなり正確に西室内部が再現されています。 石厨子(いしずし)と呼ばれる石棺には福建省の石が使われていて、仏像や花、獅子などが彫られています。首里城の龍柱など、琉球王朝時代は福建省の石が大量に輸入されており、権力…

一泊二日で大河ドラマ「麒麟がくる」ゆかりの地をめぐってきました

…主となった牧野親成は徳川秀忠の小姓をつとめ、板倉氏のあとに京都所司代に任じられた優秀な人物なので、個人的には牧野氏を中心とした江戸期の田辺藩の様子をマンガにしてみたいと思いました。 池泉回遊式庭園も残っていてきれいですよ。 20人体制でガイドがいらっしゃるそうなので、訪問される際は予約することをオススメします。 ちなみにこれは資料館のすぐそばにある舞鶴市立明倫小学校に移築された藩校「明倫館」の門です。 ふだんは閉まっているのですが、卒業のときだけ開門されてここから帰っていくそ…

若武者・木村重成の討ち死に

…平交渉の使者となって徳川秀忠の前に現れ、堂々とした振る舞いを見せた、という。 和平が破れ、大坂夏の陣が勃発すると、重成も再び出陣することになる。 しかし、天下無双の大坂城に篭もることができた先の戦いと違い、幕府方の謀略によって城の濠を埋められてしまったこの戦いでは、豊臣方は積極的に打って出るしかない。結果、多くの犠牲者を出すことになる――その中の一人に、重成もいたのである。1615年(慶長20年)の5月6日、重成の率いる一隊は河内方面の幕府軍を攻撃した。 奇襲によって藤堂高虎…

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