攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

戊辰戦争 の検索結果:

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

…考えてよろしいか? 戊辰戦争陸戦で多用された四斤山砲と比較しても、最大射程が短めに感じるので質問します(DDさん) はい、いずれも無施条の滑腔砲になります。現在確認できるうちでは、1859年(安政6年)段階で配備されていた砲類は図6のようになります。 図6.戸切地陣屋に配備されていた大砲(安政6年時点) これが1860年(安政7年)になると唐銅三貫目筒(24ポンドカノン砲)主体に更新され、配備砲数も27基を数えるなど、砲台における固定した火力起点のみならず「野崎の丘」の広いフ…

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…り内側のエリアはほぼ戊辰戦争当時の遺構を残しているため、散策しながら面影を探すのもおもしろい。また、公園内には千利休の子・少庵ゆかりの茶室「麟閣」や、鶴ヶ城をモデルに歌詞が書かれたという唱歌「荒城の月」の歌碑もあり見どころは多い。2023年4月28日㈮からは、リニューアル工事を終えた天守閣がグランドオープン。城の歴史にまつわる貴重な資料の展示はそのままに、壁面グラフィックやデジタル技術を駆使した見せ方で、より五感で楽しめる内容へと生まれ変わった。合わせて、所蔵する刀剣を公開す…

【10大戦国大名の実力】佐竹家③――優れたバランス感覚

…財政再建を成功させ、戊辰戦争においては奥羽越列藩同盟から新政府側に寝返って勝利に貢献した義堯などが知られている。 動乱の中を生きる 佐竹家の歴史をたどるというのは、ほとんど中世から近世にかけての東北・関東地域の複雑怪奇な情勢をたどるということであり、これをまとめるにあたってはかなり苦労した。なにせ、非常に複雑なのだ。源平合戦における源頼朝の挙兵以降、この地域では数々の動乱が巻き起こり、複数の勢力が並び立って争いつづけた。室町時代末期から戦国時代初期にかけては鎌倉公方・室町幕府…

【クーデターで読み解く日本史】慶喜の奇策を鮮やかに葬った薩長の逆王手――王政復古

…だが、まだ新政府側の勝利と決まったわけではなかった。むしろ強引なクーデターが諸藩の反発を招き、情勢は旧幕府有利へと傾きつつあったからだ。そこで新政府は旧幕府を挑発して戦端を開かせ、実力によってこれを打ち破る道を選ぶ。結果、鳥羽・伏見の戦いで勝利し、続く戊辰戦争で旧幕府方勢力を駆逐した新政府は、列強諸外国に伍するだけの力を持った国を作り上げるべく明治維新に邁進していくことになるのである。 王政復古 慶応三年十二月九日の政変 (中公新書) 作者:井上勲 中央公論新社 Amazon

【殿様の左遷栄転物語】紀伊藩付家老ーー水野忠央という怪物

…いるし、その後に続く戊辰戦争にも参加し、甲信地方を転戦している。一方、同じ尾張藩付家老でありながら、竹腰正旧(たけのこし まさもと)は佐幕派であったため、大名にはしてもらったものの謹慎処分になり、所領1万石も没収されてしまう(その後、返却されている)。 南紀派として幕政にも関与した先出の水野忠央の子・忠幹(ただもと)は、第二次長州征伐で活躍し、「鬼水野」の通称を奉られた。また、鳥羽伏見の戦い後に紀伊藩が朝廷より疑いの目を向けられた際には、藩主に代わって出向き、釈明している。安…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…長重はかつて離散した家臣団を呼び戻した、とされる。ちなみに、棚倉・白河両藩の藩主は丹羽家の後はずっと譜代・親藩大名しか入っていない。この点にも、丹羽家への(及び、丹羽の前に棚倉藩主だった立花家への)幕府の姿勢が見えてくる。 丹羽家は長重の子・光重の代に陸奥国二本松へと移され、この地で幕末の動乱を迎えている。幕末の二本松藩といえば戊辰戦争において少年ばかりの部隊が玉砕を遂げた「二本松少年隊」の一件が有名だが、そこに長重の立ち回りの拙さ、一本気な気質を見るのは、考えすぎだろうか。

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府15代・徳川慶喜――武家政権の最後を飾った英才 1837年~1913年

…らと新政府が激突する戊辰戦争がしばらく続くことになる。それらの戦いに、慶喜はまったくかかわっていない。 その後の徳川家と慶喜 家達は新政府によって駿河に70万石を与えられ、これが廃藩置県まで続いた。慶喜もこの地でしばらくの謹慎生活を送った後、自由の身になったが当然政治にかかわることはゆるされず、ひたすら趣味に没頭する生活を送った。彼は大変に多趣味な人物であり、馬術や弓術といったいかにも「将軍らしい」ものから写真に油絵など「新時代」風のものまで多彩にこなした。 人物評としては長…

最上義光が山形城に瓦葺きの本丸御殿を築いた理由

…、それが200年後に戊辰戦争における会津の悲劇を生むことになるとも知らずに)。 過去の名門の矜持を胸に、成り上がりの豊臣政権への文化的キャッチアップをはかった最上の意気地、その豊臣政権から権力を奪いながらももう一人の奥州の覇者に怯えた徳川政権――この2つの政権のふるまいが山形の地に異形の城を生んだのであり、それゆえ山形市役所も発掘をやめられないのかもしれない。 いちなんさんからのメッセージ コロナ禍以来遠出が難しくなった。とくに緊急事態宣言が出ている地方へいくと、1ケ月は自宅…

【戦国時代の境界大名】松浦氏――海外との窓口ゆえに苦しむも……

…出島で、以後200年あまりに渡ってオランダ人の居住区となる。こうして、異国との境界としての平戸、そして松浦氏の歴史は終わったのである。 もう少しだけ、その後の松浦氏にも触れよう。代々の当主のなかには、『甲子夜話』を著して江戸時代研究の大きな参考になっている松浦静山(清)がいる。幕末期には、隣接する長崎に外国船が侵入する事件もあったため、その防衛に奔走することになった。また、当初は公武合体を推進したが、やがて倒幕へ傾き、戊辰戦争でも新政府軍側に与している。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】遠山氏――宗家は滅亡後、残された一族による戦いの結末は?

…のだ。この功績を評価されて戦後に苗木城を与えられた苗木遠山氏は、以後幕末まで苗木藩主を務めた。 最後の藩主である友禄は文久・元治・慶応という幕末の激動期に若年寄を務めて幕政に深く関わったが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると新政府への恭順を示し、戊辰戦争でも新政府軍側についた。ちなみに、苗木遠山氏と行動をともにして存続を勝ち取った遠山一族として、明知遠山氏がある。彼らは大名家にはなれなかったが旗本として残り、名奉行として名高い遠山景元を輩出している。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】大村氏――初のキリシタン大名家として、せめぎ合いのなかで生き残る

…政権時代に伴天連追放令は出ているとはいえ、徳川政権・江戸幕府においては黙認状態であったので、幕府方針とは関わりはなさそうだ。将来的な禍根を断ったのかもしれないし、あるいは貿易の利を失ったことと関係しているのかもしれない。 幕末期には早い段階で尊王・倒幕派に藩論は傾く。それに反対する佐幕派による尊王派暗殺事件などもあったものの、むしろそれによって藩論は完全に倒幕へ向かった。鳥羽・伏見の戦いの前哨戦、及びそれに続く戊辰戦争にも新政府側で参加し、活躍している。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】有馬氏――内憂外患を周辺大勢力の力で乗り切る

…され、直純はのちに1万3千石を加増されて日向延岡へ移封された。延岡では後代の清純が藩主の際、農民一揆のため3千石減知で越後糸魚川に転封、さらに越前丸岡に移された。以後、有馬氏はここの藩主として続き、幕末、そして明治の廃藩置県を迎えている。 この間、外様から譜代格となっていた有馬氏は、幕末の藩主・道純が若年寄や老中と幕閣につき、2度の長州征討にも参加するなどしたが、戊辰戦争にあっては速やかに新政府側についた。気を見るに敏なところは先祖譲りといったところか。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】相馬氏――奥州第一の実力者・伊達氏との抗争を戦い抜く

…「利」の字は、徳川家中の有力者、土井利勝からもらったものである。 その後、義胤が居城を中村城(相馬市)に移したことから、中村藩相馬家としてその血筋が残っていく。隣国に因縁深い仙台藩伊達家があったことから無言のプレッシャーもあったようだが、伝統の行事である相馬野馬追を軍事訓練と士気向上に役立てるなど、武士としての気概を強く持ち続けた。幕末、戊辰戦争においてはその仙台藩が盟主となった奥羽越列藩同盟に加わったが、戦況の悪化から早々に離脱し、新政府軍に降伏した。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…家に分かれ江戸時代に入ったが、沼田真田家はのちに領内騒動で改易されている。松代藩は江戸城帝鑑間詰の譜代大名扱いで、とくに幕末に養子に入り家督を継いだ真田幸貫は、寛政の改革で知られる松平定信の実子であることもあってか、老中になっている。幸貫は洋学者・佐久間象山を登用するなど佐幕派のなかでも開明的だったが、彼の病没後に松代藩は迷走して尊王思想へと偏り、象山も京で尊攘過激派に暗殺されてしまう。結局、松代藩は早期に倒幕派へと与し、戊辰戦争でも新政府軍に参加した。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】諏訪氏――武田に滅ぼされた名族がその出自故に蘇る!

…高島城(諏訪市)を本拠としたため、信濃高島藩となった。 その後さらに5千石を加増されるが、うち2千石は頼水の孫の忠晴の時に弟2人に1千石ずつを分け与えて分家させたことから、高島藩3万石の譜代大名として幕末まで続いていくことになる。幕末には諏訪忠誠が若年寄兼外国御用取扱を経て、老中にまでなった。しかし、この経歴を見ればわかるように外国の事情に明るかった忠誠は第一次長州征討に反対、老中を辞める。戊辰戦争においても新政府軍側につき、近藤勇の甲陽鎮撫隊と戦った。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】亀井氏――毛利氏との御家再興をめぐる死闘に転機到来!?

…の後、2代目の政矩の時に石見国(島根県)津和野藩4万3千石に転封を受け、以後江戸時代を通して亀井家は命脈を保っていくことになる。幕末期は藩政改革を成功させ、洋式の銃や大砲を備えて軍事面でも刷新を図った。また、戦国時代以来の因縁がある毛利氏の長州藩を近隣に持ちながら交流が深く、2度に渡る幕府の長州征討においては幕府より出兵を命じられながら戦闘は行わなかった。さらに幕末期に国学が盛んになったことから朝廷よりの思想が強まり、戊辰戦争においては新政府側についた。 kojodan.jp

【お城の基礎講座】24.籠城のために

…陣にて 会津若松城:戊辰戦争にて などがあります。もっと他にもあるかもしれないので、いろいろと探してみてください。 備えあれば 戦国の世ではいつ籠城戦になるかわからないため、城郭全体だけでなく天守にも籠城戦に必要な設備が備えられたところがあります。※ここでは天守の籠城への備えだけに絞りました。 畳敷き 籠城戦において多くの人々が天守に詰めることになれば、そこは一転して生活の場にもなります。天守の床は現在では板張りになっていますが、創建当時は畳が敷いてあったそうです。これは結構…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…のほか殉死した家臣や戊辰戦争および西南戦争での戦死者らの墓があります。 瑞鳳殿へ直行する人がほとんどですが、緑に囲まれた静かな雰囲気の瑞鳳寺にもぜひ立ち寄ってみてほしいです。 所在地 宮城県仙台市青葉区霊屋下23-5 アクセス 車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で15分。 電車の場合:地下鉄東西線「大町西公園駅」より徒歩15分。JR仙台駅西口よりループル仙台で「瑞鳳殿前」下車 徒歩5分。 仙台市博物館 それではまた観光バスるーぷるに乗って移動しましょう。ひとつ隣が「博物…

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