攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

松前藩 の検索結果:

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

…走させられてるけど、松前藩には主馬以外に有能な人はいなかったの? 才能ある方は決して藤原主馬以外にいなかった、という訳ではないでしょう。しかし、彼の東奔西走に係るふたつの重大任務に関していえば、当時の松前藩には彼以上の人材はいなかった、と言えます。 連載1-3で紹介された、嘉永7年(1854年)4月~5月における藤原主馬の東奔西走 まず箱館で担っていたペリー艦隊の応接に関してです。直接の外交交渉は家老・奉行クラスがあたりますが、応接=交渉の補助および客員の日常的アテンダントと…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

…史』資料編第三巻※『松前藩御達留』について、同書所収の翻刻を基準とし、北海道大学附属図書館北方資料室デジタルアーカイブ公開の同性質資料との照合を行いつつ参照した。また、『藤枝日記』は同書所収の翻刻に拠った。江差町史編集室1980『江差町史』資料編第四巻※『慶応二年御役人幷諸向勤名前扣帳』について、同書所収の翻刻に拠って参照した。大鳥 圭介・今井 信郎1998『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』新人物往来社※『南柯紀行』『蝦夷之夢』について、同書所収の翻刻に拠って参照した。尾山…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】4.「早すぎた」洋式軍学理論のゆくえ-戸切地陣屋、そして「日本の稜堡式城郭・堡塁」のその後-

…を運用する側……他の松前藩士らには伝わらなかったようです。かねてより崇広・主馬らが進めんとした西洋流砲術への入門や稽古に「サボタージュ」「稽古中の私語」「洋式砲術稽古でわざと和式砲術を始める」など妨害とも取れる行為で抵抗していたことがそれを戒める当時の布達などから読み取れますが、日米条約以降各国との平和条約による外交的交渉が進むにつれ北方の軍事的緊張が和らいでいったこともあり、「実戦」への備えへの真剣み=西洋軍学を「真面目に」学ぼうとする機運も徐々に薄らいでいってしまったので…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-3.「日本最初の星の城」の原典への旅(3)-「野崎の丘」に実を結んだ19世紀フランス「砲戦の時代」の防衛構造・戸切地陣屋-

…用、邦訳筆者 当時の松前藩において、防衛拠点に常駐させることができる人員・砲数は限られていました。ここで無理に火力起点=砲台を増やせば、そのランニングコストで拠点運営が破綻することは確実です。その観点で見ると、戸切地陣屋の星形本陣の構造と向きは「常駐可能な火力を一稜に集中させ、さらにその火制範囲により陣前のキルゾーンを全て制圧可能にすることで、コスト・戦力両方の課題を解決している」といえるでしょう。 これらを勘案すると、戸切地陣屋は先に提示した陣屋本陣の平面構造のみではなく、…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-1.「日本最初の星の城」の原典への旅(1)-戸切地陣屋へと連なる「星の城の系譜」…パガン、ヴォーバン、そしてサヴァール-

…部計測値※図は『史跡松前藩戸切地陣屋跡 環境整備事業報告書』(上磯町教育委員会2000)より 図19.各部計測値から推定した戸切地陣屋本陣の設計および計画寸法 ※単位:メートル この「正方形の四頂に四つの稜角尖端を置き正方形の四辺・対角線・中央等分線を基準として幾何学的に堡塁を設計する」という手法が稜堡式築城術に存在するかを確認したところ、古くは17世紀末~18世紀初頭に築城の名手として名を馳せたフランスのセバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン(1633-1707)と…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-3.戸切地陣屋ができるまで(3)-松前崇広・藤原主馬の軍制改革と、その「思わぬ」結末-

…走しているのはそんな松前藩の人材難を象徴してもいます。 前回の記事:1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)- こうして重太は象山のもと砲科運用を中心とした洋式軍学を修め上げ帰藩。1853年(嘉永6年)3月25日、藩主・崇広は重太を西洋流砲術師範に任命します。史書に遺る布達を分析すると、この任命以降、藩の軍制改革・海防強化の方針が洋式軍学に基づくものへと大きく転換していることがわかります(この頃、重太は崇広から与えられた…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)-

…ら通訳をつとめるなど松前藩に重用されますが任地のエトロフで亡くなります。その子の藤原重太(主馬)も父親に劣らず有能で、佐久間象山の門下生として最先端の学問を習得しています。この親子は知名度こそ高くないものの幕末の北方防衛において欠かせぬ人物だと言えます。 前回の記事:1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場- 藤原重太(主馬)、そしてその父・藤原正蔵(ふじわら しょうぞう)については、数年前までは名前のみが知られる程度でしたが、…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場-

…として、幕末における松前藩の状況について。ぼくは松前藩が一時期、東北に移封されていたことも知らなかったのですが、蝦夷地へ復領した松前家にとって北方防衛の成否が藩の存亡に直結しており、かなり危機的な状況の中、開明的で優れた藩主が登場します。 前回の記事:はじめに 江戸時代後半・18世紀のロシアの南下以降、蝦夷地近海は露・英・仏・米ら外国船の跋扈するエリアとなり、江戸幕府にとって北方は国土防衛の重要地となりました。同地を領していた松前家は、1807年(文化4年)にこの任務に不適と…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】はじめに

…北斗市野崎に所在する松前藩戸切地(へきりち)陣屋は、中近世ヨーロッパにおいて対銃砲戦の城郭構造として発祥・発達した稜堡式築城術を日本で初めて採用した城郭であり、1855年(安政2年)の幕府による蝦夷地上知(あげち=知行地を没収すること)および函館平野一帯の警衛命令に伴い松前藩により築かれたものです(図1・2)。これは日本における稜堡式城郭=星形要塞の代表例である五稜郭の竣工(1864年)に先駆けること9年で、その北方史・築城史における価値により、1965年(昭和40年)に国よ…

【お城の基礎講座】80. 幕末の築城

…2年(1849年)に松前藩と福江藩に新しい城を築くことが命じられました。松前藩は松前城(まつまえじょう)、福江藩は福江城(ふくえじょう)を築城しました。これら二つの城は海防のために海に向けて砲台が設けられているという特徴があります。特に松前城は江戸文学の粋を尽くした巧妙な縄張りの城で有名です。城壁が複雑に曲げられており、城の入り口である虎口(こぐち)は迷路のように重なっています。理論上はどんな攻撃にも耐えられるというものです。 松前城(北海道)は幕末に作られた最後の日本式城郭…

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…アと接することになる松前藩は、それぞれ3年ごと、6年ごとに1年、江戸にいればよかった。領地で朝鮮や北方外交に注力することのほうが重要とされたからである。 江戸時代後期の諸改革や幕末の混乱は、この参勤交代制度にも影響を与えている。徳川吉宗の「享保の改革」では1722年(享保7年)、在府半年・在国1年半と江戸にいなければいけない期間が短縮されている(のちに元へ戻されている)し、幕末の1862年(文久2年)には「3年に1年または100日の在府、妻子も在府・在国どちらでも自由」と大幅…

チャシとグスクについて

…ヲンネモトチャシ] 松前藩に忙殺されたアイヌ民族の英雄「シャクシャイン」の最後の砦としても知られるシベチャリチャシやホイナシリチャシなどは「シベチャリ川流域チャシ群」として国の史跡に指定されています。 n1951 | 堀切[シベチャリチャシ] グスク 「グ」が石、「スク」が囲った場所を意味しています。 漢字では「城」という文字をあてており、たとえば「首里城」は「しゅりじょう」とも「しゅりグスク」とも読みます。 沖縄の信仰の聖地として「御嶽(うたき)」がありますが、グスクも単な…

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