攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

柳沢吉保 の検索結果:

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…り出世人といっても、柳沢吉保と新井白石と田沼意次では違う。藤原氏と北条氏も違う。その違いにこそ物語があり、歴史の面白みがある。 俯瞰することで「パターン」は見えてくるのですが、細かく見ていくと個別に異なっているんですよね。その差異を見つけていくことに歴史を学び楽しむ余地があり、攻城団では今後もいろんなコンテンツをつくっていこうと思います。ぼくは「下馬将軍」の異名を持つ酒井忠清が非常に印象深かったのですが、みなさんはどのナンバー2に惹かれますか? ぜひ読んで感想を聞かせてくださ…

【殿様の左遷栄転物語】強運の男 徳川吉宗の時代

…う。また、このふたりがあくまで1万石の大名にしかならなかったのは注目すべきポイントであろう。彼らは柳沢吉保や間部詮房のように広大な所領を与えられることはなかった。 同じく吉宗に寵愛された側近として、やはりテレビドラマなどで有名な大岡忠相(いわゆる「大岡越前」)がいる。彼もまた旗本から取り立てられて町奉行出身としては唯一、大名になったものの、1万石止まりだった。側近に権勢を振るわせないように幕府のあり方を変えようとした、その吉宗の強い意志がここに表れている、といっていいだろう。

【殿様の左遷栄転物語】「正徳の治」の崩壊

…われるしかないのは、柳沢吉保のケースとまったく同様である。 詮房はその後、越後国村上藩に移され、3年後に死去。息子の代になってさらに越前国鯖江藩に移され、石高は変わらず5万石だったものの家格は「城主」から「無城」へ落ち、これにともなって収入も大きく減ったとされる。将軍の寵愛を失ったことからの転落であるわけだが、それでも間部家は明治維新まで続くことになった。また、幕末期の藩主・間部詮勝(まなべ あきかつ)は老中に二度就任し、幕政に少なからず関与している。 白石は本丸寄合からは外…

【殿様の左遷栄転物語】徳川家宣の時代 間部詮房

…るのが役目であった。柳沢吉保のケースとほぼ同じである。このような構造を用いて、家宣もまた将軍親政の政治を実現したのである。 これだけ大きな存在感を有しただけに、詮房もまた周囲からのやっかみの対象とならざるをえなかった。特に彼は幼少期に猿楽師、すなわち芸人であったわけで、風当たりはかなり強かったようだ。そもそも直臣たち(それも、幕閣の要職に就くような名門の譜代大名や旗本たち)は、同じ武士の陪臣に対してさえ優越意識を持っていただろうから、陪臣出身でかつ元猿楽師の詮房には相当な敵視…

【殿様の左遷栄転物語】綱吉が最も寵愛した男、柳沢吉保

柳沢吉保という男 柳沢家はもともと武田信玄で有名な甲斐武田家の支流であり、武田滅亡後は多くの武田旧臣がそうであったように徳川家に仕えた。柳沢安忠の代には直臣から駿府の徳川忠長に仕えたものの、前述したようにこの家は改易となってしまったため、浪人生活を経て館林藩時代の綱吉の家臣となった。そして、その息子が綱吉の小姓となる――これが吉保(このころの名は保明)である。 やがて吉保は加増により武蔵国川越藩の藩主となる。さらに老中上席――すなわち老中より上の格、大老格となり、「松平」の姓…

【殿様の左遷栄転物語】綱吉の独裁、牧野成貞

…が同じ神田御殿出身の柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)であるが、実は彼と同じ頃に側用人になっていた者がふたりいる。この時点では、吉保よりもふたりのほうが格上であった。 まず、喜多見重政(きたみ しげまさ)は元北条家臣の血筋で、養父の重恒の代には諸藩を監視したり幼少の親藩大名の藩政を代行したりと、将軍の手足として活躍している。重政は綱吉の小姓から出世を重ね、家督継承時に1120石だったのが2万石まで加増された、綱吉の寵臣といっていい存在である。ところが、重政は側用人になった直後に…

【殿様の左遷栄転物語】第5章 地方から中央へ! 本社に栄転、成り上がる

…気に入りの存在だった柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)が小納戸(将軍の身辺雑務を担当する役職)に、というのがそうした直臣として取り立てられた数少ない者たちの代表である。そんな彼らでさえも、幕政を大きく左右するような立場ではなかった。 綱吉初期の幕政で大きな役割を果たしたのは、彼の将軍就任を後押しし、大老に任ぜられた堀田正俊(ほった まさとし)であった。この時期を「天和の治(てんなのち)」と呼び、厳罰による綱紀粛正(実際、綱吉の治世下は大名改易が非常に多い)や農政の整備が強力に進…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府6代・徳川家宣――短い治世ながら、英才を活用した名君 1662年~1712年

…きな権限を有していた柳沢吉保を幕政の一線から退け、また賄賂の横行をとめるための法令を整備するなど、前代の政治からの転換を次々と打ち出していく。この時期は富士山の噴火もあり、生類憐みの令もあって多くの庶民が幕政に不満を持っていたが、新将軍の改革を多くの人々が喜んだことだろう。 側用人政治は継承する 家宣は先代の政治を何もかも否定したわけではない。むしろ、政治スタイルそのものは継承した、といっていい。すなわち、綱吉が館林藩時代の家臣たちを幕政においても重用したように、家宣もまた甲…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府5代・徳川綱吉――生類憐みの令を発した犬公方 1646年~1709年

…じく昔からそばにいた柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)を側用人とし、重用した。この側用人は将軍と老中の間の連絡役のようなものであり、結果として両者の関係は以前よりも遠くなった。老中が直接将軍に自分の意思を伝えられなくなり、将軍親政に近い形になるとともに、その意思を伝達する側用人は非常に重要な役職となったのである――何せ、ときには彼らの言葉が将軍の言葉になったのだから。 特に吉保は綱吉の信任が厚く、諸大名は彼の屋敷に詰め掛けてどうにか自分の便宜を図ってもらおうとしたが、吉保は権勢…

7.寵臣の出世と末路

…で出世するわけだ。 柳沢吉保 5代将軍・綱吉に仕えた柳沢吉保こそは寵臣の代表であろう。吉保は、綱吉が4代将軍・家綱の養子になる前から仕えていた家臣だ。このように徳川将軍から見た、諸大名や旗本の家臣を「陪臣」という。陪臣は直参とは違って、主君はあくまで使える家の主(吉保にとっては綱吉)、すなわち直参が将軍直属の家来なら、陪臣は将軍の家来の家来という位置づけとなる。そのぶん、家格も一段低い。家中では実力者であっても、幕政に関与することはまずありえなかった。しかし、吉保の場合、綱吉…

4.出世と譜代大名

…が多い。綱吉の時代の柳沢吉保、6代将軍・家宣と7代将軍・家継の時代の間部詮房、9代将軍・家重の時代の大岡忠光、10代将軍・家治の時代の田沼意次などが有名だ。彼らは将軍の威光を背に、絶大な権力を誇った。実際の政治を行なう老中たちに将軍の言葉を伝える役割だけに、側用人たちはやろうと思えば「これは将軍のお言葉である」としてあらゆる問題に首を突っ込み、思うがままに政治を操れたであろうから、その力が大きいのは当然だったわけである。反面、側用人の台頭を抑えるため、8代将軍・吉宗の代には廃…

「大奥」を読みました

…とその当時の権力者(柳沢吉保や間部詮房など)をざっくりおぼえるテキストとしても向いていると思います。 荒唐無稽な設定なのに、妙に説得力のある展開に また男女が入れ替わるという荒唐無稽な設定ながら、大奥創設だけでなく鎖国の理由などもわりと整合性が取れていて(感染病のせいで男性が少ないことを諸外国に知られたくないため)、奇抜な設定が見事にはまった名作です。 個人的に「おおっ」と思ったのが、田沼意次の評価ですね。 田沼意次はそれまでのように農民から米を年貢で取り立てるのではなく、商…

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