狩野派 の検索結果:
…だなと感じました。 狩野派の虎と岸派の虎 後半では金沢城二の丸御殿の最新研究成果が紹介されています。二の丸御殿が何度も焼失と再建が繰り返されたと書きましたが、いろんな時代の絵図が残されていて、それらがまとめて展示されています。時代によって規模もちがうし、能舞台があったりなかったり(ふたつある時代も!)、その変遷を見てるだけでもすごくおもしろかったので、ぜんぶをCGや模型で見てみたいなと思いました。 また今回の特別展はパンフレットが洒落ているのですが、左右にいる虎の対比が良かっ…
…ての建物内の障壁画は狩野派によって描かれたということです。 勅使の間について 勅使の間とは天皇の代理人として朝廷から派遣された使者のこと。 その勅使を二条城で迎えるために用意されたのが「勅使の間」ですが、当時は「殿上の間」「遠侍 上段」などと呼ばれていたそうです。「勅使の間」という呼称が使われたのが史料として確認できるのは現在の『京都新聞』の前身である『日出(ひので)新聞』による明治33年のことで、江戸時代の呼称ではないとか。 まあ当時は白書院も「御座の間」と呼ばれたり、黒書…
…だけるということで、狩野派と御殿建築が大好物なぼくとしてはかなり役得な取材となりましたが、その内容をみなさんにもおすそ分けできればと思って動画でも撮ってきました。杉戸絵のスケール感を実感できるだけでなく、杉戸を留めるためのカギ(=打掛金物)など非常に珍しい展示物もありますので、ぜひ名古屋城まで足を運んでいただくことをオススメしますが、その予習として動画を見ていただければうれしいです。すでに見学された方も動画で復習をして、10月5日(水)からはじまる後期展示へ行きましょう! w…
…になりますね。当時の狩野派内部の序列を書状の署名順や行幸御殿での担当割当との比較などで考察し、さらに探幽らの年齢(探幽は20歳そこそこで、山楽は60代後半)を踏まえた上で、明らかにテイストの異なる大広間四の間の障壁画を見ると、やはり四の間だけは別人が描いたと考えるのが自然で、この時点でそれを担当できたのは山楽だろうと。 いちおう昨日もノートを取りながら聞いたのですが、ほぼ前回のブログにありました。前回の記事になかったネタだけ、箇条書きですが書いておきます。 後水尾天皇は一般的…
…置かれていました。 狩野派の障壁画が飾られた立派な御殿があり、明治時代には離宮にもなったことで二条城とよく似ている名古屋城ですが、この陸軍所管の歴史の有無が最大のちがいかもしれません。まあ二条城には復元天守もないのですが。 話を戻すと、名古屋城(=尾張藩)にあった資料が愛知県、さらに陸軍(名古屋鎮台)に引き継がれ、それがのちに靖国神社に遊就館(ゆうしゅうかん)ができた際に寄贈されたそうです。 www.yasukuni.or.jp 第三章 天守台石垣 ほかにも「金城温古録(きん…
…らにその祖父にあたり狩野派を一大絵師集団として工房化した元信の絵と見比べるというのは至福であり眼福でした。 「雪中梅竹遊禽図襖」(左)と「花鳥図襖」(右) 障壁画の絵師として永徳と探幽が比較されるとき「豪快な大画様式の永徳」、「瀟洒で余白を活かした探幽」というような紹介のされ方が多いのですが、たしかに元信との比較もおもしろいですね。ここに展示された水墨画だけでいうと、探幽の余白はたしかに目立つのですが、永徳よりも元信のほうが描き込んでいて、時代に連れて描き込み量が少なくなって…
…べるような内容とか、狩野派の障壁画を石垣に投影(石垣画?)とか二条城ならではの映像作品ができたらもっといいのになと思いました。(一般向けのイベントなので花火とかをテーマにするのは理解できるのですが) ちなみにソーシャルディスタンス確保用の提灯はこんな感じです。 このエリアはいつも木々にライトアップしてます。今回はここでシャボン玉を飛ばしていて、子どもが楽しそうにはしゃいでいました。こういうサービスはいいですね。 北大手門。最近のはイベント時でもここまでしか近づけないのですが、…
狩野派の障壁画に興味があるので先日ニュースで紹介しながらめちゃくちゃ行きたかったこの美術展、うれしいことに団員の十林寺さんが見学レポートを書いてくれました。 東京での開催ということもあり、ぼくのように諦めていた方も多いと思いますが、少しでも会場の雰囲気と現地で得られる知識をシェアしていただきましょう。 板橋区立美術館の館蔵品展「狩野派学習帳 今こそ江戸絵画の正統に学ぼう」に行ってきました。 私はお城好きから派生して、障壁画や狩野派にすっかり魅了されてしまい、いくつか本を買い揃…
…す)、室内にはすべて狩野派による障壁画が描かれました。 残念ながら現在残っている建物は二の丸御殿のみです。行幸御殿が移築された仙洞御所は先日、京都新城跡の痕跡が見つかったところですね。 黒書院三の間とはどんな部屋なのか いよいよ本題です。今回、特別入室が実施されている黒書院三の間についての説明に入ります。 二の丸御殿に入ったことのある方であればこの平面図でなんとなくわかると思いますが、入口から入ってすぐの虎の絵が描いてあるのが遠侍、大政奉還の様子を再現した人形のある部屋が大広…
…た。日本の室町時代に狩野派を中心に、巨大で、しかも花鳥風月――それも中国の古典に題材をとった豪華な金屏風ができると、明への貢物・輸出品としてものすごく価値があったそうです。明の皇帝からの書状が残っていて、それには「次の船では必ず金屏風を貢物として持ってこい、なければ入港させない」といったことが書かれているそうです。 このように金屏風は大変重宝されたのですが、多魯毎が王となった時代は室町幕府も勘合貿易を認められて大量に金屏風を明に贈っていたため、品薄となり本土から仕入れることが…
…する説もあります。 狩野派は初代・狩野正信が足利義政の御用絵師になって以降、織田信長、豊臣秀吉と常に権力の中枢の御用絵師として画壇に君臨してきました。それは徳川の時代になっても変わらず、二条城の改修時は天才と謳われた狩野探幽をリーダーとして大量の絵を制作しました。 山楽は探幽の祖父にあたる狩野永徳の弟子で、江戸にいかず京都に残り「京狩野」と呼ばれていました。 ふたりは世代もだいぶちがうので、画のタッチも異なります。ただし障壁画は何度も修復を繰り返しているので、絵そのものから特…
…トラもそうですけど、狩野派が描くトラってぜんぜんこわくないですよね。 円山応挙が描く子犬、応挙の弟子である長澤蘆雪が描くウサギと愛くるしさ満点。 歌川国芳の「里すずめねぐらの仮宿」は「天保の改革」によって役者絵や遊女に関わる絵が禁止されたため、人間をすべて雀に変えて描いています。 ほかにも写楽や歌川広重などの作品がありました。 この変わり兜も「カワイイ」コーナーに展示されていました。シャチホコの形をしています。誰が使ったんだろう。 サムライ☓日本美術 まずは海北友松の子である…
…ない(御用絵師集団・狩野派の絵師に貸し出された記録もある) 大坂城が目立つように描かれているが、敵の館を中心に描く構図はある意味では合戦図の王道である(「保元合戦図屛風」でも白河殿がメインに描かれている) 先のとおり、敵方の活躍を描くことも珍しいことではない ということを考えると幕府が描かせた可能性が高いのではということでした。 ちなみにこの「大坂冬の陣図屛風 デジタル想定復元」は東京国立博物館が所蔵する「大坂冬の陣図屏風 模本」を科学的な調査にもとづき、本来の姿を想定してデ…
…ルフィアで開催された狩野派展にも出張した)、いつでも二条城で展示できるわけじゃない 「松鷹図」の狩野山楽説を唱えたのは川本桂子さんが最初(1990年頃)、若い方では静岡県立美術館の学芸員も山楽説を主張 狩野探幽は「画壇の家康」という異名がある 個人の「くせ」をもとに画家を特定する手法・技術を確立したのは二条城の模写事業の初代監督をつとめた土居次義(どい・つぎよし)先生で、イタリアの美術史家ジョヴァンニ・モレッリが考案した「モレッリ法」をアレンジして取り入れた 「モレッリ法」で…
…なったわけですね。 狩野派の序列から考える こうした異説の根拠のひとつが、「狩野派内部の序列」です。以下は早逝した狩野家の総領・狩野貞信の遺言に署名した順番が示されたものです。ようするに「こういうのはえらい順にサインするはずだろう=当時の序列」というわけです。 ちなみにこの遺言書の内容ですが「狩野派の総領がいちばんいい部屋の絵を描くこと。みんなそれを守ってね。守らなかったら神様のバチが当たるよ」といったことが書かれているそうです。 それを踏まえて行幸御殿の指図を見ると、絵の左…
…中心となった桃山期の狩野派の様式です。 一方、西側は地面を描かず、ふすまの下辺からいきなり枝や幹が描かれています。これは狩野探幽が描いたとされる大広間の「松図」などに代表されるように寛永期の狩野派の様式です。 このように立体的・重層的な旧様式と、平面的な新様式が見て取れることに加えて、北側の障壁画は金箔のサイズが小さいことからも時代が古いことを示唆しています。 ただし、なぜこのように様式が異なる障壁画が同じ部屋に存在しているかはわからないそうです。また作者についても現時点では…
…るという杉戸絵です。狩野派が描いたとされる杉戸絵は撮影オッケーだったのでまずはご覧ください。この虎の杉戸絵とかすごいでしょう。 この絵はいわゆる「鯉の滝登り」ですが、「登竜門」の話(中国の黄河中流にある急流「竜門」を登りきった鯉が竜になるという伝承)を描いてるんでしょうね。こういう中国由来の話をいくつか知ってると杉戸絵や障壁画のモチーフが理解できて楽しくなります。 以下の絵はヤマアラシのようですが、これはガイドの方も由来がわからないとおっしゃってました。 これは「司馬温公のか…
石庭で有名な龍安寺に狩野派が描いたと思われる(海北派の説もあり)芭蕉をモチーフにした金碧障壁画が展示されています。 この芭蕉の絵はもともと龍安寺の塔頭のひとつで、織田信長の弟である織田信包によって建立された西源院の方丈の障壁画として描かれました。しかし1797年(寛政9年)に起きた火災で寺領の大部分が焼失すると、西源院方丈を龍安寺本堂(石庭がある建物)として移築したため、同時に襖絵も移されました。客人をもてなす「上間(じょうかん)一の間」で使われていたようです。(展示されてい…
…」とかわからないし、狩野派だとか長谷川派だとかも見て判別できません。だけどそんなのわからなくてもチャンスがあれば見ておけばいいと思います。だって金碧障壁画ってそれだけでド派手でカッコいいし、見応えありますよね。 そして「竹に虎」や「唐獅子牡丹」のような仏教由来のモチーフの組み合わせだったり、「涅槃図」にコリー犬が描いてあるとか知ると絵がただの絵じゃなくなるというか、画家の気持ちが少しだけ感じられますよね。 もちろん事前に知識を仕入れておいたほうがいいですけど、あとからでもぜん…
…→御所へ移築後焼失 狩野派の絵師たちが障壁画を描く 二の丸御殿大広間 一の間は将軍が座る 二の間は対面の相手が座る 三の間の用途は不明 おそらく二の間で対面する前にここで控えた 寛永行幸の際は秀忠と家光がここから能を鑑賞した(天皇は二の間から) 江戸幕府における武士の階級 将軍……1人 大名……約200〜300人 旗本……約5000人 御家人…約17000人 将軍と対面できるのは旗本以上 障壁画のモチーフ 松……不老長寿、永続的な繁栄 孔雀…徳川家の権力、魔除け・厄除け 将軍…
…見事な復元でした。 狩野派の障壁画の復元模写だけでなく、さまざまな金具や欄間の彫刻にいたるまで、現代の職人のすばらしい仕事ぶりに感動しっぱなしでした。もちろん写真を見ておわかりのとおり、新築だから柱なども真新しくて「本物っぽくない」と不満に思われる方もいるかもしれません。でも本物ってなんでしょうか。もちろん復元はあくまでも復元であって本物ではありませんが、修復を繰り返せばいずれ当初のものなど何ひとつ残らないのも事実です。復元であってもこれから何十年、何百年と新しい歴史をつむい…