攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

菩提寺 の検索結果:

石川県立歴史博物館で開催中の特別展「御殿の美」を取材してきました

…。 ほかにも前田家の菩提寺である瑞龍寺が所蔵している探幽の水墨画や、桂離宮の飾り金具など、この時代の最高クラスの美を味わえるのは贅沢だなと感じました。 狩野派の虎と岸派の虎 後半では金沢城二の丸御殿の最新研究成果が紹介されています。二の丸御殿が何度も焼失と再建が繰り返されたと書きましたが、いろんな時代の絵図が残されていて、それらがまとめて展示されています。時代によって規模もちがうし、能舞台があったりなかったり(ふたつある時代も!)、その変遷を見てるだけでもすごくおもしろかった…

【家康の謎】家康が信仰していたのは何宗?

…のだろうか。松平氏の菩提寺は今でも愛知県岡崎市にある成道山松安院・大樹寺(だいじゅじ)だ。この寺は当然仏教であり、宗派は浄土宗。鎌倉時代に法念が開いた宗派であり、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば極楽往生できると訴えて多くの信徒を獲得したことでよく知られている。 大樹寺はそもそも開いた時点から松平氏との縁が深い寺だ。ある時、松平氏の第四代当主である親忠(ちかただ)が、合戦で討死した死者たちが泣き叫ぶ声がずっと聞こえてしまって苦しむ、ということがあった。しかし、勢誉愚底(せいよぐ…

「歴史遺産ウォーク in 那珂川『二つの山城跡と菩提寺を巡る歴史ツアー』」開催レポート

…珂川「二つの山城跡と菩提寺を巡る歴史ツアー 〜いざ、武茂氏の山城『武茂城』&『台の館』へ〜」 2月と3月にかけて、栃木県那珂川町観光協会主催で「二つの山城跡と菩提寺を巡る歴史ツアー」が開催されました。このツアーは武茂氏の山城「武茂城址」と松野氏の居館「台の館跡」をめぐりながら、両氏の菩提寺である「乾徳寺」と「松林寺」を訪ねる「歴史遺産ツアー」のひとつとしで行われました。旅のナビゲータを“山城ガールむつみ先生”が務め、町の学芸員がサポートとして同行しました。モニターツアーのため…

【家康の謎】家康の旗印にある「厭離穢土欣求浄土」の由来や意味は?

…つの説がある。家康の菩提寺である大樹寺の住職・登誉天室(とうよ てんしつ)がルーツだというのは同じなのだが、その伝えるに至ったシチュエーションが大きく違うのだ。ひとつは、大樹寺に伝わるとされる説だ。それによると、桶狭間の戦いの後、大高城から逃れて岡崎へやってきた家康はこの大樹寺にある松平氏の墓の前で切腹しようとした。しかし登誉は押し留め、「厭離穢土欣求浄土」と書かれた旗を渡し、仏教の教えを説いたのである。家康も武将だから人を殺し、敵を攻撃するのが当然だが、それは一体何のために…

【家康の謎】家康は桶狭間の戦いのあと、なぜ駿府に戻らなかったの?

…入らず、まず松平氏の菩提寺である大樹寺へ入る。当時の岡崎城には今川方の城代が入っていて、家康がそのまま入ることはできなかったからだ。その城代が駿河の方へ引き上げていく。つまり「捨てた」ということだ。捨て城であるなら拾ってしまっても構わないだろう――そのように理論武装、言い訳を用意した上で、家康は岡崎城に戻った……以上が、いわゆる通説における家康の岡崎城への帰還である。 これは「家康はあくまで松平氏の当主という独立した武将で、今川には人質として捕えられ、従っていたに過ぎない」と…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城をめぐる戦いの様相②――力攻めはスピードがメリット

…下を焼き、先祖代々の菩提寺などを破壊し、田畑の作物を勝手に刈り取る。こうなると、籠城側はこれを放置できない。あるいは、本城ではなく支城を包囲して「救いにいかないといけない」状態に追い込み、後詰決戦に持ち込むのも、おびき出しの一種といえるかもしれない。 これと似たような考え方に「巻攻め」がある。この際は三方向を包囲し、あえて一方向だけ逃げ場を作ってやる。人間、完全に追い詰められれば死力を尽くして戦おうという気にもなるが、「もしかしたら逃げられるかも」となればあるものは逃げ出し、…

【クーデターで読み解く日本史】死んでこそ、忠臣のほまれは保たれる――元禄赤穂事件

…上げた一行は浅野家の菩提寺である泉岳寺へと向かった。ここには亡き君主である長矩の墓があり、その墓前に吉良の首を供え、敵討ちを果たしたことを報告したとされる。 自首した彼らの扱いについては幕府内でも少なからずもめたらしい。「主君の仇を見事に取った義士である」として助命を訴える声があったのである。それでも「法を破ったことは罪である」とする声のほうが強く、せめて武士としての立派さを讃えて切腹という名誉ある死を与えることによって決着した。吉良家に対しても領地没収の処罰が下っており、こ…

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

…されている。水野氏の菩提寺・乾坤院(愛知県東浦町)に所蔵されている記録によれば、彼女は「世に隠れなき美色」という美女であったが、その美貌に惹かれたものがあった。松平氏を三河を代表する大名にまで押しあげた、松平清康である。 忠政が「故有って」於富の方と離縁すると、そこに清康が働きかけ、ついに自分の妻として迎え入れてしまった。もちろん、この「故」とは清康による圧力と考えるべきであろう。於富の方は清康のもとでしばらく過ごし、子も残す。だが、清康は1535年(天文4年)に織田氏を攻め…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…預かっていた井伊家の菩提寺・龍潭寺(浜松市北区)の南渓和尚(直宗・直満の弟)と直盛の未亡人が話し合い、次郎法師を井伊家当主に担ぎ上げた、と『井伊家伝記』は語っている。 出家した次郎法師は「井伊次郎直虎」を名乗って井伊谷を統治した。蜂前神社(浜松市北区)所蔵の文書に、「次郎直虎」の署名が残っている。これだけ見れば、なにもおかしなことはないように思える。だが、じつはこのできごとは当時としても非常に希少な事態だった。というのも、次郎法師=井伊直虎は女だったからだ。 戦国乱世を見渡せ…

毛利元就ゆかりの地おすすめ19選

…夫妻の墓もあり弘元の菩提寺の教善寺もあります。この城で毛利隆元や五龍局が生まれました。 多治比猿掛城へはJR芸備線の吉田口駅から行くか、JR山陽本線の広島駅からバスで行くことが出来ます。 kojodan.jp 有田城 それから約5年後、1516年に元就の運命が大きく変わります。 兄であり毛利の家督を継いだ総領でもある興元が急逝してしまうのです。父と同じく酒が原因だったと言われています。 これにより毛利家では興元の嫡男である幼子の幸松丸(こうまつまる)をわずか2歳でありながら家…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…き、林泉寺は上杉氏の菩提寺となりました。輝虎は七世住職益翁宗謙のもとで修行し、剃髪した時に師から一字を譲り受け不識庵謙信と号するようになり「上杉謙信」が誕生したとされています。 林泉寺の山門には写しではありますが、謙信公直筆と言われる「春日山」と「第一義」の文字が力強く書かれた額が掲げてあるので思わず見入ってしまいました。境内にある宝物館に行くとその額の本物を間近で見る事ができます。他にも謙信が存命中に描かれたものとして唯一現存する肖像画など、ゆかりの品々が数多く展示されて …

明智光秀ゆかりの地おすすめ19選

…れた場所に明智一族の菩提寺で光秀の妻らの墓がある「西教寺」もあります。 西教寺の梵鐘は平安時代に作られたもので明智光秀の寄進と言われているそうです。 ハヤヒデ | 西教寺総門[坂本城] 本堂近くに明智一族のお墓と供養塔があるのですが、汚名一族の墓はどこか悲しみをさそいます。訪れてみて下さい。 光秀の妻・煕子(ひろこ)の墓だけがぽつんと一人離れたところにあるのが印象的でした。 所在地 滋賀県大津市坂本5丁目13-1 アクセス 京阪電車「坂本駅」から徒歩25分、またはJR「比叡山…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…寺 瑞鳳寺は伊達家の菩提寺で仙台藩2代藩主・伊達忠宗によって江戸時代初期の寛永14年(1637年)に藩祖・伊達政宗廟である瑞鳳殿と共に建立されました。色彩豊かな細工で彩られた美しい山門は東京品川の伊達屋敷の門を模したものだそうです。 境内には、高尾門や鐘楼、伊達忠宗寄進の梵鐘などのほか殉死した家臣や戊辰戦争および西南戦争での戦死者らの墓があります。 瑞鳳殿へ直行する人がほとんどですが、緑に囲まれた静かな雰囲気の瑞鳳寺にもぜひ立ち寄ってみてほしいです。 所在地 宮城県仙台市青葉…

かつての王都・浦添グスクと浦添ようどれを取材してきました(伊祖グスクも)

…等地にある)前城主の菩提寺を追い出して、自分の家の菩提寺をそこに以前の領地から移転させます。なのにこの浦添ようどれでは、直接の先祖でもない石棺を残して、その周囲に石棺を置いているのです。 ぼくが「なぜもともとあった石棺を残してるんですか?」と聞いたら、親富祖さんも「それがわからないんです」とおっしゃってました。ただ浦添ようどれを尚巴志が修復したり、浦添ようどれの菩提寺である極楽寺を尚円王が移転再建したり、琉球という国は王権が変わっても以前の王統を全否定することはなかったのかも…

一泊二日で大河ドラマ「麒麟がくる」ゆかりの地をめぐってきました

…津城主・小倉播磨守の菩提寺です。小倉氏は丹後守護・一色家の重臣だったのですが、細川藤孝に敗れて滅亡しています。 ここには「明智光秀」の首塚があります。 なぜここに首塚があるのかはわからないのですが、一説には秀吉からガラシャの元に光秀の首が届けられ、それを供養したそうです。さすがにそれはないと思うのですが、首塚があるということは遺髪かなにかが届けられたのでしょうね。 天橋立・智恩寺 取材の最後は「日本三景」のひとつである天橋立にある智恩寺です。じつは天橋立は「本能寺の変」の約一…

紅葉の名所、大徳寺高桐院にいってきました

…。 高桐院は細川家の菩提寺 大徳寺の塔頭である高桐院は細川忠興(三斎)が建立した細川氏の菩提寺です。江戸時代初期の武将で茶人としても有名で「利休七哲」のひとりにも数えられる忠興ゆかりの寺院だけあって、書院は利休の邸宅を移築したものといわれています。 境内はすべて撮影オッケーなのもうれしいですね。この客殿南庭(本堂前庭)もあと少しで真っ赤になります。 室中にある木像はちょっと暗いのですが、中央に開祖である玉甫紹琮(細川幽斎の弟)、左側に忠興のものがあります。 忠興の木像はちょっ…

御朱印集めの魅力について、zenkoさんに聞いてみました

…うところは歴代城主の菩提寺が城下町に点在していたりするので、それらを順にまわるのもお城めぐりの楽しみになるんじゃないでしょうか。 また御朱印帳と御城印帳をわけるだけでなく、書置きを貼ると厚みが出るのでそれもわけたほうがいいとか、善光寺については善光寺専用の御朱印帳をというアドバイスには驚きました。調べてみるとたしかに善光寺は本堂以外にも境内にある雲上殿、大本願、大勧進、釈迦堂など20以上の異なる御朱印をいただくことができるそうなので、1冊を善光寺専用にしてもいいかもしれません…

はじめての御朱印集め(御朱印の意味と入手方法)

…下町にある戦国武将の菩提寺に参拝して御朱印をいただくことをオススメしていますが、御朱印の基礎知識だけでもちゃんと学んでおきたいなと思って調べました。基本の基本ですけれど、まずはこのくらいの知識からはじめてみませんか。 御朱印とは 御朱印とは寺院や神社において、参拝者に向けて押印される印章・印影のことをいいます。仏様や神様とご縁を結んだ証としていただくものと紹介されることも多いですが、お寺や神社に参拝したしるしとして頂戴する直筆のサインのようなものと考えてください。住職や宮司に…

【京都】2019年秋に開催される歴史好き向けの特別公開・特別拝観・ライトアップイベントまとめ

…畠山家に加え前田家の菩提寺ともなっています。本堂、表門、唐門が室町時代創建で禅宗建築の代表作で、重要文化財に指定されています。また「昭和の小堀遠州」と謳われた作庭家・中根金作が復元した桃山風の荘厳な石組みを持つ方丈庭園や、茶室「涵虚亭」も見どころです。 大徳寺 総見院 秋季特別公開 期間:2019年10月12日(土)~11月30日(土)10:00~16:00※11月3日、10日は11:30から公開※11月21日は15:00受付終了※11月22日は終日休止※その他、法務により拝…

【京の冬の旅】妙心寺鱗勝院で春日局の御霊屋と海北友雪の水墨画等を見てきた

…す) ここは春日局の菩提寺で、3代将軍・徳川家光が創建した寺です。 方丈の三部屋には海北友松の息子、海北友雪による「雲龍図」「山水図」「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)・西湖図」の水墨画が描かれています。これは複製ではなく本物でした。とくに室中に描かれた「雲龍図」は間近まで寄って見れます。 「京の冬の旅」パンフレットより 天球院の室中には金碧障壁画の「竹虎図」が描いてましたけど、こちらには水墨画とお寺ごとにいろいろちがうんですね。このへんはもっといろんなお寺をまわっていくとル…

【京の冬の旅】妙心寺天球院で狩野山楽・山雪の「竹虎図」等を見てきた

…田輝政の妹、天久院の菩提寺です。建立者とか名前の由来とか謎が多いので、それは後述するとして、このお寺の方丈(ほうじょう)を飾る障壁画は、「京狩野」の始祖である狩野山楽とその娘婿・山雪によって制作されています。近年の研究ではおもに山雪が描いたっぽいですね。 妙心寺塔頭寺院 #天球院 では特別公開を行なっています。#狩野山楽・山雪 の代表作である「竹虎図」、「梅に遊禽図」、「籬草花図」などをご覧いただけます。豪華絢爛とはまさにこのこと……本などでしか見たことがなかったので、実際に…

【京の冬の旅】本法寺で長谷川等伯筆「佛涅槃図(複製)」や狩野山楽筆「唐獅子図屏風」を見てきた

…は実家である奥村家の菩提寺である本延寺が日蓮宗だったことから、その総本山である本法寺に寄宿していたようです。 本堂前には等伯の銅像があります。七尾駅前にあったのとちょっと似てます。 この時代、縁もゆかりもない土地に出ていくときに自分ちの宗派を頼るんですね。 以下のページで本延寺も紹介しています。 kojodan.jp ちなみに現在地に移転したのは豊臣秀吉が聚楽第を築城するにあたっての都市改造で、1587年(天正15年)のことですから、1571年(元亀2年)に上洛した等伯は一条…

全国にある織田信長の墓所

…京都市東山区 信忠の菩提寺。信長、信孝の墓石がある 妙心寺玉鳳院 京都市右京区 信長乳母養徳院の菩提寺や、滝川一益の墓もある 建仁寺本坊 京都市東山区 供養塔がある 今宮神社 京都市北区 旧阿弥陀寺にあった祠を移す 建勲神社 京都市北区 信長を祭神として東京の織田子爵家邸内に建てられたが、明治13年に遷座 聖隣寺 京都府亀岡市 信長の子で、秀吉の養子となった秀勝が建立 高野山金剛峯寺 和歌山県高野町 明智光秀・豊臣秀吉などの墓もある 西光寺 滋賀県近江八幡市 元は安土城下に所…

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