攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

金ヶ崎の退き口 の検索結果:

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

…せました。いわゆる「金ヶ崎の退き口」です。家康は信長とともに越前から琵琶湖の西を通って京に戻り、信長は美濃へ、家康は岡崎に帰還しました。 岐阜に戻った信長は、浅井長政を討つために北近江に出陣し、6月21日に小谷城を攻撃します。家康も5,000の兵を率いて参陣しました。しかし堅固な小谷城を攻め落とすのは無理と判断して一日で退却、後方の横山城を包囲しました。信長と家康は龍ヶ鼻(たつがはな)に陣を構えます。これに対し、浅井・朝倉軍は姉川の北に、信長・家康軍も呼応して姉川の南に布陣し…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…年)、29歳 4月、金ヶ崎の退き口 6/28、姉川の戦い 6月、信長の勧めで浜松城を築いて移る 10月、上杉謙信と同盟を模索。武田家臣・秋山虎繁による遠江侵攻という約束違反による不信感から 1572年(元亀3年)、31歳 義昭から家康へ状況を心配する御内書 御内書原本は不明だが、11月に側近の朽木輝孝宛の返書が残っている @つまりこの時点では義昭は信長・家康側にいて、信玄の西上作戦に義昭は関わっていない証拠 →信長包囲網の再検討が必要。そもそも信玄の出陣は上洛目的だったのか?…

明智光秀と羽柴秀吉――あるいは「二人の余所者」

…き、朝倉攻めからの「金ヶ崎の退き口」で光秀らと危険な殿(しんがり)を務め、浅井攻めでも活躍し……これらの戦功によって、ついに旧浅井領に長浜城を築いて、一国一城の主となるに至った。この頃には、もはや押しも押されもせぬ織田の重臣となっていたのである。 さて、この秀吉とどこか似た立場にあったのが光秀である。かたや下級武士の子、かたや(通説を信じるなら)名門土岐一族の流れで将軍の直臣だった男とはいえ、織田重臣たちの中に入ってしまうと「余所者」であることに変わりはない。織田重臣たちは柴…

【戦国合戦こぼれ話】信長の配慮不足が招いた朝倉討伐失敗

…である。 長政としては、このように同盟相手を無視する行動に出るようでは、今後いつ自分が討たれるかわからない、と考えたのだろう。信長としては「長政が利を優先して朝倉攻めを黙認する」と見て、あえて強行したのだろう。結局のところ、これは信長の配慮不足が招いた失敗、といわざるを得ない。 結果、信長は「金ヶ崎の退き口」と後世に伝わる必死の撤退戦を展開してどうにか引き上げた。以後、信長と浅井・朝倉氏の戦いは長く続くことになるのである。 初出:『歴史人』ウェブサイト(2011年6月10日)

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