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平賀源内という男

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平賀源内は日本のエジソン、稀代の天才発明家というイメージでしたが、じっさいは不器用な器用人というかすごいんだかすごくないんだかよくわからない人だったようです。エジソンよりも「万能の天才」と呼ばれたレオナルド・ダ・ヴィンチに近かったのかもしれません。
そんな平賀源内について今回は榎本先生に解説していただきました。

平賀源内のイメージ

平賀源内。江戸時代に活躍した学者である。テレビ時代劇か漫画、アニメなどでしばしば登場したり、あるいはモデルにしたキャラクターが作られてきたので、名前を知っている人も多いだろう。

では、そもそも、平賀源内とは何者か、ご存知だろうか。こういう時、まずは辞典をめくるのが良い。以下、『全文全訳古語辞典」(小学館)を引用する。

ひらがげんない 【平賀源内】

人名江戸中期の本草学者、戯作作者。号は風来山人など。讃岐(さぬき)(香川県)の人。温度計やエレキテルなどを作って世人を驚かせた。滑稽本『風流志道軒伝』、浄瑠璃『神霊矢口渡(やぐちのわたし)』などがある。(一七二八~七九)

綺麗にまとまってはいるが、わかるようなわからないような、という印象が強いのではないか。何しろ、やったとされることが多様で、掴みどころがない、とも言えるからだ。

この中から源内という男にとって一番大事なポイントを抜き出すなら、「世人を驚かせた」ところではないか。源内はとにかく「世人を驚かせた」人だったように思われる。彼の友人で、『解体新書』を訳したうちの一人として知られる杉田玄白が、源内の墓碑銘として作った文章がある。そこに「海内賢愚と無く悉くその名を知る」とあったのも、彼が良くも悪くも著名な人物であったことの一つの証拠だろう。

では、ここから源内という男について見てみよう。まずは、フィクションの中の源内がどのような姿をしているのか、追いかけてみたい。

いろんな作品で登場する平賀源内

別図で、代表的と思われる源内の登場するフィクション作品と、そこで注目される源内の要素(職業)を整理した。

この図を見ると、圧倒的に「発明家」が多い。実際、世間一般のイメージする平賀源内といえば「江戸時代のなんかすごい発明家」であるはずだ。このイメージのおかげで、源内は時代劇や江戸時代ものフィクションで便利に使われるキャラになっている。主人公や重要キャラクターの時は蘭学や発明で問題を解決するキャラクター(ドラマ『翔んでる源内』)になるのが定番だろう。

一方、漫画『大奥』の源内は男装の女性で、この作品の大きなギミックである赤面疱瘡の治療法開発に大きく貢献するも、悲劇的な死を遂げるという非常に重要なキャラクターだった。後ほど詳しく書くが、史実の源内は大発明をした人とも歴史への貢献をした人ともいえないので、イメージを膨らませたキャラクターと言えよう。

――ところで、私自身はここまでの流れにちょっと気になるところがある。江戸時代に「発明家」などという職業は本来存在しないのである。この呼び名については、彼の行いを後世の人が解釈してつけたと考えるべきだろう。

では、彼のどのような要素が後世の人をして「発明家」と呼ばせたのか。その一番大きな部分は、やはり「蘭学者」としての源内であろう。源内が発明したとされるエレキテルなり、温度計なりが、蘭学(のなかに含まれている科学)をバックボーンにしていることは疑いようもない。そのため、図でも「発明家(蘭学者)」という書き方をさせていただいた。

しかし、源内が発明家とみなされた理由としてもう一つ、本草学者としての源内の顔も見逃せない。実は源内は蘭学以前に「本草学(現代でいうところの博物学。特に江戸時代は「役に立つ薬品の材料の発見や抽出」に重点が置かれていたらしい)を学んでいた。本草学は調査・発見・工夫の学問であり、源内はこの学問について研究する中で薬の発見などを行なっている。そこから発明家的な業績を残したという部分も大きいだろう。

なお、フィクションの中で本草学者としての源内に注目されるケースは古い作品では少ない。しかし『大奥』の源内は本草学者として描かれていて、それはやっぱり新しい作品だからではないか。

源内はいわば発明家のアイコン的な存在であるため、しばしば時代や世界を飛び越えてフィクションに登場することがある。その時はモデルとして使われたり(現代人の天才学者・平賀源内、など)、ちょっとだけ名前をもじったりする。『必殺!』シリーズでは平賀源内がそのまま別の時代に現れたりするが、これはどちらかといえば「なんでもあり」の『必殺!』シリーズらしさというべきだろう。

ちなみに、源内モデルのキャラクターが能力バトルに駆り出されるような場合は、「電気使い」になる(セガのゲーム、『英傑大戦』)。これは彼が電気を利用した器具であるエレキテルを発明したとされるためだろう。こう言うところも、「キャラとして使いやすい」源内の特徴と言える。

私自身が「福原俊彦」名義で小説家活動を行っていた時期、彼を小説の主人公にするために調べた(図にもひっそり入れさせていただいた)。その時のことを思い出し、実際の源内に真摯に向き合うと、みなもと太郎『風雲児たち』で描かれた「才能はあるんだけど学者じゃなくてアイディアマン、プロデューサー、広告マンの才能があった人」というのが一番実像に近かったのではないか、と思う。

平賀源内の実像(いまわかっている平賀源内)

ここからは、史実の平賀源内を追いかけてみよう。

高松藩士、脱藩浪人

彼は高松藩士・白石茂左衛門良房の子に生まれ、父が亡くなったので跡を継いだ。「平賀」を名乗るようになったのはこの頃のことである。高松時代からすでに当時の常識的な学問である儒学や俳諧とともに、本草学に興味を持ち、学んでいたとされる。

幼少期より学問への興味を強く持っていた源内は、長崎への遊学を経て学問をしたいと強く願うようになった。ちなみにこの遊学については、以前から本草学による殖産興業を志していた主君による内命説と、讃岐の医者に連れて行ってもらったという説がある

結局、源内は病気を理由に家督を辞して、妹に婿を取らせ、まず大阪へ、続いて江戸へ移って本草学を学んだ。

本草学者

源内はドラマだとだいたい「フリーの発明家(蘭学者)」として描かれる。「そう」だった時期が長いのは確かなのだが、どうも望んでそうだったわけではなさそうだ。

彼は江戸で本草学者の弟子になっていろいろ活躍し、一度は求められて高松藩に戻るんですが、結局再び脱藩することになった。この時に高松藩から「この男をどの藩も雇わないように!(奉公構)」というお触れが諸藩に回り、源内は以後をフリーの学者・アイディアマンとして過ごさざるを得なくなる。

源内自身はそのことをどう思っていたのか。これは解釈が少なからず分かれるようだ。『人物叢書 平賀源内』では、奉公構をかなりの重大事件とし、源内にとっても周囲にひた隠しにせざるを得ないショックな出来事であった、として書いている。一方、ちくま学芸文庫の『平賀源内』では、奉公構の後も高松藩からの処置が「屋敷にはこれまで通り入っていい」とするなど緩めであることに着目し、「藩主の死などをきっかけに解かれていたのではないか」「源内自身に宮勤めへ戻る気が無かったのではないか」的に推測している。

奉公構を受けた後、源内は「薬品会」を企画し、師匠の田村藍水の主催によって開催している。これは現代でいうところの博覧会の小型版で、薬の素になる植物など、さまざまな物を展示し、交換などもしたと伝わる。なお、同種のものは他にも多種あり、先立つ形では数年前に京都の津島如蘭の「本草会」というものもあったとされるが、これはあまり続かなかったようだ。源内たちのそれをきっかけに、薬品会、物産会と呼ばれるものが全国で開かれるようになっていったらしい。

学者としての源内

前述のように源内の発明は蘭学に根付いている部分が大きい。しかし、この時代の蘭学は医学と深く結びつき、有名な蘭学者はほとんどイコール医者といえるような状態であるにも関わらず、彼の生涯に医者としての活動は見当たらない(勉強した時期は一応あるようなのだが)。ここに違和感を持つ人もいるだろう。

しかし、源内も医学としての蘭学に関わっていなかったわけではない。薬品の発見をしたり、電気治療器(エレキテル!)を作ったりしているわけだ。

源内が医師としての勉強に熱心にならなかったのは単に彼の興味が患者の治療ではなく、本草学という治療に用いる薬品の発見・研究に関係する学問に向いていただけだったと考えられる。実際には、彼もまた蘭学といえば医学という時代の影響下にいると言っていいと思う。

では、そんな源内は学問に熱中したのだろう。彼はどんな目標を掲げていたのだろうか?

これについては、外国の事典その他を訳して、日本の博物事典(動物、植物、鉱物その他の事典)を作るということだったのでは、と考えられる。

それは本草学者(博物学者)としては非常に真っ当な目標なのだが、源内にはこの点で重大な弱点があった。彼はオランダ語がダメだったのだ。同時代に杉田玄白・前野良沢ら『解体新書』チームがいたわけで、同じようにやればよかったが、源内はそうはしなかった。全く私的な印象だが、言葉の学習と翻訳は非常に忍耐力を要求される。『解体新書』チームにはそれがあったが、どうも人格的に見栄っ張りで飽き性の源内にはそれが無かったのではないだろうか。

薬品会後、源内は後述するような発明・発見もしながら、鉱山開発など事業で手一杯になったり、活動資金・生活資金のための文芸仕事んなどで忙殺されたりと、なかなか研究はできなくなっていったようだ。

数々のエピソードの虚実

源内といえば、多種多様なエピソードでその人生を飾った人物である。それはどのくらい本当なのだろうか?

源内は幼少期「天狗小僧」と呼ばれて評判の人物だった!
これは『平賀実記』という源内の伝記に書いてある話だ。この資料そのものは「夢物語」と言う評価をされることもある(『人物叢書平賀源内』が、源内の子供の頃の活躍などは信じて良いのではないか。
源内は幼少期から天才だった!

実は今も残っている幼少期源内の発明品がある。これは仕掛け絵で、天神様の顔が書いてある。糸を引っ張るとその顔が赤くなる――実は糸を引くと絵の裏に赤い紙が移動する、という仕掛けだ。面白い仕掛けではあるが何かすごい発想ということでもなく、天才というには少々弱いのではないか。

源内は非常に才能に恵まれ、文芸方面でも非常に活躍した人である

確かに源内は滑稽本『風流志道軒伝』、浄瑠璃『神霊矢口渡』などを残した。しかし、この時代のインテリ必須の教養のうち詩文については漢詩文・和歌の両方でてんでダメだったらしい。親交のあった大田南畝が「源内は詩文・和歌を知らない。彼の作った作品に良いものは一つもなかった」と酷評しているほどだ。こうなると、源内は偏った才能の持ち主だったのでは、と思える。テレビで活躍するタイプの学者、と言われるとなんとなくイメージが伝わるのではないか。

「土用に鰻を食べる」は源内が作ったキャッチコピー

これは「否定する証拠も肯定する証拠もない」「他に諸説がたくさんあるので源内だと断定ができない」話だ。

キャッチコピーは正確には「土用の丑の日、鰻の日。食すれば夏負けすることなし」だともいうのだが、史料には見つけられない。

諸説としては以下のようなものがある。

①『万葉集』、大伴家持の歌に「痩せたる人を嗤咲ふ歌 / 石麻呂に 我物申す 夏痩せに 良しといふものそ 鰻捕り喫せ」があり、夏に鰻というのはそもそもこの時代からあった。

②源内より後の時代、嘉永年間版の『江戸買物案内』に、「土用丑の日に鰻を食べる風習を始めたのは春木屋善兵衛」と書いている。

③明治時代に書かれた『東京年中行事』には「蜀山人(太田南畝)が鰻屋のために考えた」とある。看板に「土用丑の日」とだけ書いて、気になった客が鰻屋に集まった、とある。

とはいえ、源内がコピーライター的な活躍をしていたことを否定するのも無理があるようだ。というのも、音羽屋多吉の「きよみづもち」の広告コピーを残したのは間違いないらしく、大田南畝が『飛羽落葉』という源内の口上集に以下のように記録しているからだ。

世上の下戸様方へ申上候。

そも我が朝の風俗にて、目出たき事にもちひの鏡、子もち金もち屋敷もち、道具に長もち魚に石もち、前に座もち牽頭もち、家持は歌に名高く、惟茂武要

かくれなし。かかるめでたき餅ゆへに、此度おもひつきたての、器物もさつぱり清水餅、味は勿論よひよひと、御贔屓御評判の御取もちにて、私身代もち直し、よろしき気もち心もち、かかもやきもち打忘れ、尻もちついて嬉しがるやら、重箱のすみから隅まで、木に餅のなる御評判奉願候以上

これを読み上げてみると非常にリズムに乗っていて、いわば「江戸のラップ」だと評価する意見もある(『平賀源内』(平凡社新書))ほどだ。

源内は非常に優れた発明家で、エレキテルや竹とんぼ、温度計などを発明した

これはなかなか難しい。というのも、彼が学者として発見や発明をしているのは事実なのだ。はっきりとわかっているのは「芒硝」と「火浣布」の二種類の発見・発明だ。

・芒硝(硫酸ナトリウム):当時は消化や利尿の薬として考えられ、現在はガラスの製造その他で使われている。源内は伊豆での調査からこの薬品を作ったと言える。

・火浣布:「火で洗える布」。竹取物語にいうところの「火鼠の皮衣」。源内がこれを作ったという話になっていて、正体は今でいう石綿、つまりアスベストだったらしい。

しかし、この二つ以外の有名な発明の話は疑わしいか、あるいは間違いだ。

竹とんぼについては源内以前から存在していたらしく、鎌倉時代の竹とんぼが発見されたりしている(福井県の平泉寺など)。なお、古代中国の書物『抱朴子』に記されている「風車」が竹とんぼのことだという説もある。しかし、この説については東洋文庫版の『抱朴子』の註に「疑わしいが面白いから紹介した」的に書いてある通り、信憑性は疑わしい。

温度計が源内の発明だというのは、そもそも実際のエピソードがねじ曲がって伝わったものだ。史料などで見られる話としては「オランダ製の「タルモメイトル」という温度計を見せられた源内はすぐさまその原理を説明して見せ、しかも「高すぎる」と文句を言い、自分で作って見せた」というのである。作ったのは本当であっても、発明というのは間違いだ。

エレキテル(摩擦起電機)も同じこと。これはそもそも源内の発明品ではなく、ヨーロッパにもともとあったものだ。ハンドルを回すと摩擦の力で電気が起きる。本来は電気を利用した治療用具である。

それが日本に輸入され、壊れたものを源内が入手し、修理し、いくつかコピーした、というのが実際のところのようだ。源内は電気のことを「電(いなずま)の理」として紹介したが、実際には西洋で発明されたちゃんとした電気の理屈はほぼ理解できておらず、「万物は火から生まれる」「それは特別な火、天火だ」「これはガラスによって天火を呼ぶ道具だ」と説明した。しかも、実際にはエレキテルは先に本草学者・後藤梨春の『紅毛談』により紹介され、源内の理屈もそこに書いてあるものの発展に過ぎなかったので、源内がやったのはまさに「機械を修理しただけ」だったようだ――もちろん、わずかな情報と勘でそれをやりおおせたのは凄まじいことだが、「天才発明家」のイメージとはかなりズレる。

源内は復元・模倣したエレキテルを見せ物&治療用具として使った(とはいえ、これは西洋でも同じことで、どうして電気が治療になるか不明だったのも同じ。源内は「体内から火を奪うから」と説明したようだ)。しかも源内のエレキテルはあまり派手に電気を起こすことができないため間が持たず、仕方がないから食事を用意したり余興を用意したりしたそうだ。

源内は牢屋に入れられたが、脱獄して生き延びた

研究も商売もなかなかうまくいかない中、最終的には人を殺してしまい、牢屋で死んだ。それが、平賀源内という男にまつわる史実だ。しかし、この種の人の通例として、「実は生きていた」伝説が語られた。それによると、源内のパトロンだった当時の権力者・田沼意次が密かに脱獄させ、自分の領地に匿ったという。

その真実は確かめようもない。しかし、史実の源内が田沼をしてそこまでさせるほどの人物だったかいうと、疑わしいというのが正直なところだ。

平賀源内という男

最後に、まとめとして。平賀源内とは何者だったのか?

筆者としてはおおむね「合わない夢を見てしまった人」という印象がある。薬品会のエピソードをはじめ、企画には非凡の才があったといってよかろう。オランダ語をちゃんと勉強しなかった割に蘭学関係の業績をある程度残せたのは、長崎の通詞や江戸の蘭学者たちの協力を得られたからのようで、つまり人を集めてその力を借りることができる人だったということだ。

ところが、本人は実学で自分の成果が欲しかった。「江戸に馴染もうと頑張っていた田舎者」として、見栄っ張りでもあったともいう。つまり、「エンジニア(テクノロジスト)として一流に見られたかったベンチャー社長」――そう考えると個人的には納得できる。学者たちをうまく取りまとめて、自分は企画や金勘定をやっていれば、偉大な業績を残せたかもしれないが、しかしそれは本人の望む「成功した自分」ではなかったのだろう。この辺り、自分と重ねてしまう人も少なからずいるのではないか。

「功ならず名ばかり遂げて年暮れぬ」。源内、晩年の句である。

参考文献
榎本先生が平賀源内を描いた小説と伝記

kojodan.jp

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