攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【家康の謎】徳川家康はなぜ天下を取れたのか?

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

榎本秋の家康の謎

「徳川家康はなぜ天下を取れた」のだろうか――本連載最後にふさわしい、そして非常に答えるのが難しい問いかけである。昔からみんなが好きな疑問であり、多くの答えが出されてきた。
実際、なにかしら偉大な事業を達成した人に対して、「この人が事業を成し得たのは何か特別な理由があったからだ」と思いたくなるのは、人間として自然な心の動きと言えるだろう。では、家康に対して人々はどのような「理由」を見出したのだろうか?

代表的な理由のひとつは家康個人の性質に見出される。すなわち、「我慢強さ」「忍耐」である。
家康の生涯を追いかけてみると、常に近くには強者がいて、彼らに圧迫され続けた人生であるように思える。幼少期には今川氏の支配下にあり、独立した後は武田氏に脅かされた。
同盟者である織田氏との関係も決して対等とは言えず、嫡男の信康を織田信長の強要により殺さざるを得なくなったとされる。豊臣氏(羽柴氏)に臣従した後は、秀吉の命令で無理やり父祖の地を追われて関東へ移り住むことになった。
ようやく関ヶ原の戦いで勝利して天下を取るまで、家康の生涯は我慢の連続であり、その強さこそが彼に天下を取らせた、というわけだ。

――さて、この通説は事実だろうか。そもそも戦国乱世において、近くに「格上」がいて圧迫されなかった大名(武将)の方が希少なのではないか。
織田信長にしても、家督継承直後には弟と争い、その後は今川氏に圧迫され、上洛後は包囲網の諸勢力に圧迫されるとともに自ら擁立した将軍・足利義昭との関係性は難しいものがあった。我慢強さが求められる状況、忍耐が最大の武器となる場面は、ほとんどの大名(武将)にあったのだ。家康だけを特別とみるのは難しい。
先に紹介した中でも、たとえば「信康を殺したのは信長の強要」だとか「関東への転封は望んだことではなかった」などはおそらく間違いである……というのはすでに本連載で見てきた通りだ…

この視点で見たとき、家康の特別性を見出すならその寿命ではないか。
三英傑の寿命を比べた時、謀反で死んだ信長は例外にしても、秀吉は享年62で家康は享年73。それも、家康が死んだのは「対抗勢力である豊臣氏を滅ぼし、将軍の地位は早めに息子に譲って、政治体制を安定させた後」のことだ。「朝鮮出兵という懸念事項を残し、跡取りになる息子も幼い時期」に死んだ秀吉とは事情が全く違う。
つまり、好機が転がり込んでくるまで長生きをし、また機会を掴んだあとに安定させるまでさらに長生きしたこと。これこそが家康の天下取りの秘訣だったのではないか。

もうひとつ、家康自身の力ではない別の要素がピックアップされることも多い。
この時に注目されるのが三河武士団、すなわち譜代の家臣団の存在である。家康は幼少期を三河から離れて暮らしたわけだが、そのときに三河を守っていたのが彼らだった。
松平(徳川)が独立した後は家康を支える基盤となって数々の戦いに加わり、その勇猛さと何よりも忠誠心によって名を馳せた。江戸幕府が開かれた後は各地の譜代大名および旗本・御家人として幕府を取り仕切り、約二百五十年の太平を支えたのである……。

こちらの通説についても「正直怪しい」というのが実際のところであるし、大河ドラマ「どうする家康」を一年見てきた皆さんは賛成してくれるのではないか。
別に三河武士たちは松平(徳川)のもとで一致団結なんてしないのである。彼らそれぞれに事情があり、目的があり、主君に要求もしてくる。大名(武将)たるもの、そんな彼らをコントロールするためにできる限りのことをしなければならない。戦国乱世では当たり前のことだ。

そのような三河武士団が後世においては忠義のヒーローとして語られているのはなぜか。
彼らやその子孫たる旗本・御家人たちが「三河武士は忠義に厚かった」と喧伝した部分が多分に大きかったのではないか、と私は考える。
旗本・御家人からすれば先祖を誇ることによって自分たちをも誇るのは当然だが、結果として歴史が少なからず歪められた側面もあったのではないか。そのような歪みを取り去って見つめてみれば、三河武士団は良くも悪くもこの時代の武士たちであり、家康は(たとえば秀吉などと比べると)譜代の家臣団を持つことによるメリットも大きかったろうが、それがイコール天下取りの秘訣とは言い難い。

家康・天下取りの秘訣と考えるなら、むしろ東海の地に勃興した勢力という点が大きかったのではないか。
京都からさほど遠くなく、かといって中央の混乱に巻き込まれるほど近くもない。東海道によって文化や知識、物資が行き来していることのメリットもあったろう。
そして何より、まず隣国尾張の織田信長が天下人として立ち、そして高転びに転んだ際、「その同盟者」というポジションにいたことは、家康のその後にとって絶大なプラスになったはずだ。これもまた三河を拠点としていたからこその話である。

誤解しないで欲しいのだが、家康が寿命や立地だけで天下を取ったなどというつもりはない。
戦国末期の動乱の中で滅びることなく立ち回ったこと、いくつかの合戦で生き残ったこと、そして天下分け目の関ヶ原の戦いに至る暗躍と奮闘。これらの原因として家康の有能さは確かにあったろう。
しかし、そのような有能さや家康ならではの特徴というものが「だからこそ天下人になれた」というほど隔絶したものとは思えない。
そのため、ここでは「寿命」と「立地」という二つの要素を挙げさせていただいたのである。ご了承いただきたい。

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する