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【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いで何割くらい勝てると思ってたの?

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榎本秋の家康の謎

天下分け目の関ヶ原の戦い――家康はその戦いに、どのくらいの勝算を持って挑んだのだろうか。通説では、決戦開始時には家康率いる東軍は劣勢であったと語られる。
兵力こそほとんど互角であったものの、陣形としてはおおむね平地に陣取る東軍に対して、西軍の諸部隊はその前後左右を半ば包囲する形になっていた。家康が陣を置いた桃配山から見て左手に位置する松尾山の小早川秀秋や、後方に位置する南宮山・毛利氏の軍勢が一気に攻め込んできたなら、ひとたまりもなかったはずだ。

実際にはよく知られている通り小早川に対しては寝返りの交渉が進んでおり、毛利に対しては先鋒の吉川広家との間に不戦の約束が結ばれていたものの、果たして裏交渉の通りに話が進むのか、家康は大いに不安であったはずだ。
彼がイライラしている時の癖であった爪噛みの仕草をしていたこと、また戦の途中で松尾山に対して鉄砲を撃ち込ませる(いわゆる「問鉄砲」)暴挙に挑んでいたことが知られている。

さらにもうひとつの大問題があった。有力旗本で構成されて徳川軍本隊とされる次男・秀忠の軍勢が中山道を進んでいたものの、途中で真田昌幸らとの戦いに足止めされて進軍が遅れ、ついにこの決戦に間に合わなかったのである。戦力面でも家康は不安だった、というわけだ。
これらの通説に基づくなら、家康はかなり不安な思いで当日を迎えたはずだ。勝敗は五分五分と思っていたのではないか――となるのだが、実際のところ、近年の説では「家康はかなりの部分で勝ちを確信していたのでは」と考えられる。

まず、最大の不安要因である小早川秀秋については、「実は秀秋は関ヶ原の決戦前日には西軍を見限っていて、実質的に東軍側の存在だった」という説が有力になっている。
戦闘開始時から東軍側として参戦していたため、「問鉄砲」も実際には行われなかった。決戦はごく短時間で終わった――というのである。また毛利氏についても、単に吉川広家個人との間の密約であるだけでなく、西軍総大将である毛利輝元との間に密約が成立していたと考えられている。
家康は通説で言われている以上にしっかりと西軍を切り崩していたのだ。

さらに中山道の秀忠隊についても「徳川本隊とは言えなかったのではないか」という見方が浮かび上がっている。家康隊と秀忠隊を精査してみると、どちらが優れている、劣っているとは言い難い存在であるという説があるのだ。
確かに秀忠隊はいろいろな事情があって決戦に間に合わなかったし、そのことで家康は秀忠を叱責した。しかし、秀忠の遅参が家康にとって決定的な計算違いとは言えなかったのではないかというのであり、なるほど説得力がある。
以上から、家康は十分な勝算を持って戦いに挑み、そしてその通りに勝利したと私は思うのだが、どうであろうか。

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