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【家康の謎】家康はどうして豊臣家を滅亡させたの?

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榎本秋の家康の謎

大河ドラマ「どうする家康」はいよいよ最後のクライマックスイベント――大坂の陣を迎えようとしている。
家康は関ヶ原の戦いおよびその後の戦後処理、さらには江戸幕府の創設によって、「豊臣政権の最大実力者」から「新たな政権のトップ」へとその立場を変えた。
だが豊臣政権の継承者である豊臣秀頼は生きている。この状態を「江戸幕府・徳川将軍による単独政権」とみるか、「徳川・豊臣二重政権」と見るかについて議論があることは、すでに紹介した通りだ。
その後、歴史は江戸幕府の攻撃による豊臣家の滅亡という結果へ向かっていく。ではどうしてそうなったのか? 家康はなぜ豊臣家を滅ぼしたのか? という点を今回見てみよう。

関ヶ原の戦い直後、家康はまだ「豊臣政権の最大実力者」であり、秀頼に臣従する立場だった。しかし、江戸幕府を開いて自らが将軍になり、さらにそこからさほど時を置かずして将軍の地位を己の息子である秀忠に譲った(秀頼の存在とは関係なく将軍の地位を世襲していく意思を示した)。
このことで、もはや新たな徳川政権が誕生して、少なくとも東日本が豊臣政権のコントロールから離れたのは明らかであった。

さて、家康は将軍の地位を息子に譲った後も、政権の主導権を持ち続けていた。
そんな彼は、秀頼と豊臣家をどのように扱おうとしていたのだろうか。ここも昔から意見の分かれるところで、「家康は最初から豊臣家を滅ぼすつもりだった」とも「家康はなるべく豊臣家を滅ぼさないつもりだった」ともいう。
どうも近年の研究では、「家康は豊臣家を滅ぼさないように動いていた」という説が有力になっているようだ。ただ、豊臣家を特別な、つまり秀吉時代の、徳川家の上に立つ存在としての豊臣家として残す気もなかったと考えられる。家康は、秀頼と豊臣家を、江戸幕府に従う一大名家として残したかったのである。有名な二条城での会見(二条城にいる家康の元へ秀頼が挨拶に出向き、会見を行なった一件)も、家康の方が秀頼も立場が上であることを示すためのものだったと考えられる。

一方で、秀頼と豊臣家は、江戸幕府と徳川将軍家に臣従する気はなかった。
その象徴として考えられているのが、1611年(慶長16年)の三か条の法令である。幕府の政策に従うことを求めるこの法令に、天下の諸大名は従う姿勢を示した。しかし、秀頼は従わなかった。
家康はついに豊臣家を一大名家として従わせることができず、かくして攻め滅ぼすしかなくなってしまったのである。

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