攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

大村喜前 の検索結果:

【戦国時代の境界大名】大村氏――初のキリシタン大名家として、せめぎ合いのなかで生き残る

…秀吉に臣従し、息子の大村喜前を豊臣軍に参加させている。これによって2万7900石あまりの所領を安堵された。だが、純忠自身は豊臣勢に九州が平定された天正15年に亡くなってしまった。 その後の大村氏 純忠の後を継いだ喜前はほかの九州の諸大名とともに朝鮮出兵に参加。また、「関ヶ原の戦い」では九州において徳川家康方の東軍として、西軍の小西行長領の城を攻めるなどの活躍をしている。なお、かつて彼の父がイエズス会に寄進した長崎の町は、九州を平定した秀吉が出した伴天連追放令によって南蛮人たち…

【江戸時代のお家騒動】大村藩の御一門払い 藩内の抵抗勢力を一掃する

…舞台】大村藩【藩主】大村喜前【主要人物】大村純頼 バテレン追放令によって財政難に この「御一門払い」は、1607年(慶長12年)に肥前大村藩で起きた事件だ。読んで字の如く、藩主である大村家が庶家一門(=御一門)の領地を強制的に取り上げて、追放したのである。大村氏は、藩が成立する以前からこの地の在地領主であった。1587年(天正15年)に行われた豊臣秀吉の九州征伐ののち本領を与えられ、藩が成立する。初代藩主は大村喜前だ。 ところが、それから間もなくして発せられたバテレン追放令と…

5.支配者としての大名たちの苦悩

…要としていた。そこで大村喜前の息子、純頼の発案で実行したのが、約2万7千9百石の所領のうち約8千石を占める大村一族15家の所領を強引に没収することであった。これを「御一門払い」という。この処置によって大村家の力は飛躍的に高まり、一門衆の発言力は弱まって、近世大名的な大名・家臣の力の構造がつくられることとなったのである。 家臣の分裂を抑えられず…… 江戸時代初期には家臣団との軋礫の末に混乱が生じ、幕府の介入を招くような家もあった。黒田家や前田家などが有名な例なのだが、この二家は…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する