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…が、名目上の立場は毛利家の家臣であり、独立大名としては扱われなかったのである。いわば岩国領主だ。その背景としては、毛利本家との不仲があったようだ。 この関係は延々と続いたが、幕末における当主・経幹は両者の関係を改善するため積極的に活動した。一方で幕末の動乱に深くかかわった長州藩とともに対外活動にも熱心だった。これらの結果、経幹が1867年(慶応3年)に亡くなると、長州藩主・毛利敬親は自ら朝廷に願い出て、吉川家を大名、岩国藩主としたのである。維新直前の実に異例な再興劇であった。
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