攻城団ブログ

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平城上皇 の検索結果:

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…皇の変) 嵯峨天皇と平城上皇(へいぜいじょうこう)の対立=二所朝廷(にしょちょうてい)。平城上皇は自ら東国に赴き挙兵することを決断するが、嵯峨天皇は坂上田村麻呂を派遣してこれを阻止 平安時代 842年(承和9年) 承和の変 藤原北家の藤原良房が自分のおいにあたる道康(みちやす)親王(後の文徳天皇(もんとくてんのう))を擁立するために恒貞親王(つねさだしんのう)を廃太子にした。藤原氏による最初の他氏排斥事件 平安時代 866年(貞観8年) 応天門の変 太政大臣・藤原良房が大納言…

【クーデターで読み解く日本史】摂関政治誕生のきっかけ――承和の変

…ことだ。彼の兄である平城上皇(へいぜいじょうこう)の子・阿保親王(あぼしんのう)の下に、伴健岑(とも の こわみね)と橘逸勢(たちばな の はやなり)という二人がやってきた。健岑は恒貞親王(つねさだしんのう=嵯峨上皇の弟・淳和上皇と嵯峨上皇の娘の間に生まれた子であり、時の仁明天皇の次に天皇となる皇太子)の護衛官で、逸勢は橘奈良麻呂の孫である。彼らは嵯峨上皇の死を契機に恒貞親王を立てて東国に入り、国家に反乱しようではないかと持ちかけた、とされる。 しかし阿保親王は話に乗らず、こ…

【クーデターで読み解く日本史】悪女に惑わされた兄に反発した弟の戦い――薬子の変

…年) ○嵯峨天皇 ×平城上皇 壬申の乱以降長く続いた天武天皇系の皇統だったが、称徳天皇の死後に天智天皇系の皇統から光仁天皇が出て久方ぶりの交代ということになった。その背景には道鏡の失脚にも関与したとされる藤原式家(ふじわらしきけ)の藤原百川(ふじわら の ももかわ)の策動があったという。 さらに百川は光仁天皇の子を桓武天皇として即位させる。この桓武天皇は征夷大将軍・坂上田村麻呂らを派遣して東国の蝦夷を討伐させた人だ。しかも一方で、従来の平城京からまず長岡京へ、そしてこれが上手…

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