攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

松平忠吉 の検索結果:

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…切ったタイミング)、松平忠吉の抜け駆けの有無、など論点があるらしい 9/25、毛利輝元が大坂城を退去 9/27、家康は大坂城へ入り、秀頼に戦勝報告 @あくまでも豊臣政権内部の政争 論功行賞。豊臣系大名は大幅加増となるも遠方へ。畿内と江戸を結ぶ東海道や要衝には重臣や一門を配置(結城秀康=越前北庄、松平忠吉=尾張清洲、本多忠勝=伊勢桑名、井伊直政=近江佐和山など) →徳川家臣は秀頼から見れば陪臣なのに? その後も大坂の陣や島原の乱などは起きたが、国内を二分するような戦いは幕末まで…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…封となり、家康四男・松平忠吉が52万石で清須城に入城しました。しかし、1607年(慶長12年)に忠吉は早世したため、九男・徳川義直がわずか8歳で清須城主となります。実際に清須城に入城したのは1609年(慶長14年)の正月のことです。徳川家康は関ヶ原の戦いののち、公儀普請(天下普請)によって各地に大城郭を築城または従来の城の大改修を行っていきます。これはいわゆる大坂包囲網を敷くためと考えられています。その最終的な城の一つとして、1610年(慶長15年)に家康が名古屋城の築城を諸…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…が薄まってきた頃に、松平忠吉(まつだいら ただよし)と井伊直政が本来の先鋒を差し置いて抜け駆けしてからの序盤の2時間、西軍は戦況を優位に進めていた。この時、島津・小早川・毛利がそれぞれ戦闘に参加していなかったにもかかわらず西軍有利だったことを考えると、三成の構想通りに戦闘が進めば西軍の勝利は間違いなかっただろう。 しかし、三成が使者を出しても島津は動かず、狼煙を上げても小早川も毛利も動かない。島津が参戦しなかったのは、前夜の夜襲を却下されたことを恨みに思っていたのだとも、兵力…

井伊直政の抜け駆け

…り、家康の四男である松平忠吉の舅(妻の父)という地位も占め、徳川家臣団の中でもこの人あり、という人物だった。 さて、関ヶ原の戦いにおいて、東軍の先鋒を務めるはずだったのは福島正則だった。彼は東軍側についた豊臣系大名の重鎮というべき存在であり、また真っ先に東軍への参加を宣言したことから、家康としてもこれは当然の判断だったといえる。 しかし、直政はあえて抜け駆けを敢行した。晴れつつある霧に紛れながら関ヶ原を進み、福島隊に見咎められると同行していた忠吉の名を使って「初陣の忠吉さまに…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原、島津義弘の前進撤退

…立ちはだかった武将は松平忠吉と井伊直政。忠吉は島津勢の武将の首を一つとったが、島津勢の銃による攻撃で直政とともに怪我を負った。この銃が無茶な退却に大きく役立ち、島津勢を救っている。徳川勢もここで島津勢を追うのを断念している。 とはいえこの戦いにより島津勢はかなりの数の武士が戦死した。はじめ数百人いた武士たちが、最終的には百人弱にまで減ってしまったのである。散った者たちの中には副将の豊久もおり、義久にとっては大きな痛手であっただろう。 この後も島津勢には辛い道のりだった。詳細は…

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