攻城団ブログ

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秋山虎繁 の検索結果:

【家康の合戦】三方ヶ原の戦い 家康惨敗!信玄にコテンパンにやられた戦い

…したが、武田の家臣・秋山虎繁が大井川を超えて遠江を侵したため関係が険悪になりました。この後の1570年(元亀元年)に家康は越後の上杉謙信と同盟を結んで武田との対立をあらわにします。そして、信玄の遠江侵攻へとつながっていくのです。 しかしそれほど簡単な話ではなく、もっと複雑な事情があります。つまり、武田を取り巻く状況の変化です。信玄の宿敵である上杉謙信と北条氏政が1569年(永禄12年)に越相同盟を、織田信長と上杉謙信が1572年(元亀3年)に濃越同盟を、そして織田信長と徳川家…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…盟を模索。武田家臣・秋山虎繁による遠江侵攻という約束違反による不信感から 1572年(元亀3年)、31歳 義昭から家康へ状況を心配する御内書 御内書原本は不明だが、11月に側近の朽木輝孝宛の返書が残っている @つまりこの時点では義昭は信長・家康側にいて、信玄の西上作戦に義昭は関わっていない証拠 →信長包囲網の再検討が必要。そもそも信玄の出陣は上洛目的だったのか? 12月、三方ヶ原の戦い 二俣城の落城後、浜松城へ進軍。ただし素通り 被害の大きい攻城戦を避けて野戦を誘った信玄と、…

岩村城 女城主が支えた城

…死を知り、高遠城主・秋山虎繁(信友)に攻撃を命じた。1572年(元亀3年)の12月に信長に従う遠山氏の諸城を攻撃させ、上村合戦で遠山氏は敗れている。そのため攻撃を緩和する意図で、秋山虎繁の岩村城入城を認め、翌年2月におつやの方との政略結婚がなされた。甥への裏切りと知りつつも、城主としての任を優先、あるいは御坊丸を守ろうとする母性がそのような決断をさせたのかもしれない。 その後、織田氏と武田氏の衝突は何度かあったが、決着はつかなかった。1573年(元亀4年)に武田信玄が病死。後…

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