攻城団ブログ

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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑨――武田信玄に苦汁をなめさせ、内応であっさりと落ちた城・砥石城

…信濃の有力者であった葛尾城主の村上義清(むらかみ よしきよ)がこれを奪い取る。武田信玄の信濃侵攻において強大な壁となり、「生涯にわずか二度」という信玄の敗北の相手になったのが彼、義清であった。そして、そのうちの一度、「砥石崩れ」と呼ばれる戦いの舞台こそが、この砥石城だったのだ。砥石城自体はやがて武田氏の家臣である真田氏のものとなり、第二次上田合戦の記録の中にその名前が出てくる。 1548年(天文17年)に第一の敗北である「上田原の戦い」で義清に敗れた信玄はその2年後、義清が別…

【戦国時代の境界大名】小笠原氏――名門武家、宿願のために三英傑の元を渡り歩く

…次ぐ信濃の名門である葛尾城(長野県坂城町)の村上義清がいて、信玄と何度も争った。この際、長棟の子・長時(1514―83)は義清の頼みを受けて援軍を出し、信玄と戦っている。 というのも、長時は元より信虎・信玄の親子と戦ってきていたからだ。一度、頼重が武田氏についた時などはその居城を攻め、救援にやってきた武田軍とも戦って頼重を降伏させた、ということもあった(『寛政重修諸家譜』)。信濃守護として、そしてなによりも武田氏に劣らぬ名門として、信濃で勝手はさせぬ、という強いプライドがあっ…

斎藤道三と高政の関係が怪しくなっていた頃、信濃は武田信玄の手に落ちようとしていた

…に立ちはだかったのが葛尾城(かつらおじょう)の村上義清だ。信玄はこの義清相手に、1548年(天文17年)の「上田原の戦い」と1550年(天文19年)の砥石城を巡る攻防戦(いわゆる「砥石崩れ」)の二度にわたって手痛い敗北を喫している。「麒麟がくる」では帰蝶が織田信長のもとに輿入れし、また今川軍の攻撃が織田と尾張、さらには美濃までも大いに揺らしていた頃のことだ。 信玄は諦めなかった。1552年(天文21年)までには義清ら北信地域の敵対勢力を追い出すことに成功したのである。一方、南…

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