攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

高崎藩 の検索結果:

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】2.「日本最初の星の城」戸切地陣屋の防衛構造の概略

…され意見を求められた高崎藩の兵学者・市川一学(いちかわ いちがく)による『御城地之儀ニ付存寄申上候書付』などで、たびたびその地形条件・眺望を絶賛されています。 図10.「野崎の丘」鳥瞰全景 図11.南から見た「アナタヒラの崖壁」。比高は約30~40m かつて星形の本陣ばかりが着目されてきた戸切地陣屋ですが、こうした資料精査により浮かび上がってきた情報をもとに、視野を星形本陣だけでなく「野崎の丘」全体に広げ、その城郭としての構造を図化したのが図12です。これを見ると、「アナタヒ…

【殿様の左遷栄転物語】徳川家宣の時代 間部詮房

…し、最終的には上野国高崎藩5万石にまでなった。 たとえば、家宣の将軍宣下の際、「服忌令(ぶっきりょう)」というものによって1年以内の将軍宣下は行えないとされていたものを、近衛基熙(このえ もとひろ)と相談して「家宣は綱吉の実子ではなく養子だから」ということで3カ月後には将軍宣下を執り行ったのは詮房であった。詮房は将軍の意思を伝える側用人として老中たちによる会議に参加し、その結果をまた将軍に持ち帰るのが役目であった。柳沢吉保のケースとほぼ同じである。このような構造を用いて、家宣…

けっきょく江戸時代に藩はいくつあったのか

…ています。井伊直政が高崎藩、本多忠勝が大多喜藩といった具合ですね。 井伊家や本多家は江戸時代に入って彦根藩(正確には佐和山藩)や桑名藩に加増移封されますが、そのまま引きつづき同じ領地を藩主として支配した場合もあります。この場合、藩の成立は1590年(天正18年)なのか、あるいは江戸に入ってからちゃんと朱印状が発給されて記録として残っているのかがわかりません。今後ちゃんと調べていけばわかるのかもしれませんが、とりあえずこのケースでは1590年(天正18年)を立藩年として入れてい…

7.寵臣の出世と末路

…次席の家格と、上野国高崎藩5万石の大名の座を手に入れる。ちなみに彼の父親は猿楽師(能役者とも)で、武士ですらなかった。それがここまで上り詰めたのだから、空前の大出世と言える。しかし、詮房の栄華は長く続かなかった。家宣の死後、7代将軍には子の家継が3歳で擁立されたが、なんと5年後、家継はわずか8歳という若さで亡くなってしまうのである。当然、家継に子がいるわけもなく、8代将軍には御三家のひとつ、紀伊徳川家から吉宗が選ばれた。詮房は後ろ盾を失い、またたく間に失脚する。間部家は越後国…

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