攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

加藤清正の虎退治

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

前回紹介した前田利太のエピソードもそうだったが、戦国武将にまつわるものにはどうしても江戸時代に各種の書籍や講談で面白おかしく創作されたらしきものが多く、どこまで歴史的事実として見ていいかどうかは怪しい。
しかし、それだけに血沸き肉踊る痛快なエピソードが多くあるのも事実で、今回紹介する「加藤清正の虎退治」などはその筆頭といってよいだろう。

f:id:kojodan:20200110164121p:plain

加藤清正は豊臣秀吉子飼いの部下として福島正則とともによく知られた人物である。
「本能寺の変」後、分裂する織田家中の主導権を握ろうとする秀吉と柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」で活躍し、「七本槍」と讃えられたことはつとに有名だ。

その後も秀吉の天下統一戦で存在感を示してきた清正は肥後熊本に19万5000石を与えられる。
1592年(文禄元年)から九州の諸大名を中心に大陸出兵が行われた際にもその主力として活躍し、朝鮮の二王子(臨海君・順和君)を捕らえ、朝鮮半島を踏破して兀良哈国(現在のロシア)にまで攻め寄せるなどの功績を残した。

そして、このころに彼が演じることになった大立ち回りこそ、「加藤清正の虎退治」である。
あるとき、清正の陣の近くに虎が現れ、馬を連れ去られたり家臣を殺されたりといった事件が起きた。
これに激怒した清正は自ら山狩りを行い、ついに一匹の虎と遭遇する。
鉄砲を持った家臣たちがこれを撃とうとするが、あえて自ら虎に立ち向かった清正は、槍を虎の喉に突きこんで殺害した、という。

このようにいかにもヒロイックな活躍をしたとされる清正だが、やがてその運命は暗転する。
石田三成・小西行長といった外交や補給を担当する文官たちとの折り合いが悪く、ついに朝鮮から引き戻されて蟄居することになってしまったのだ。
このときの対立が尾を引き、ついには秀吉死後の豊臣家中分裂につながったという見方もある。

戦場の勇者といえど、時代が太平に近づきつつあったころには何もかもその槍で手に入れられるわけではない――虎退治に代表される清正の朝鮮出兵エピソードが、その冷たい現実を象徴しているように思えるのは私だけだろうか。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2012年6月7日)
フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する