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諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

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今回は島田市博物館の岩﨑学芸員に諏訪原城について教わります。今年で築城450年を迎える諏訪原城は、天正年間に武田勝頼によって築かれました。のちに徳川家康が奪取し、一時期は今川氏真が城主をつとめたという大河ドラマ「どうする家康」の登場人物たちともゆかりの深いお城です。
そんな諏訪原城の歴史と高天神城攻略における戦略的要衝としての価値について書いていただきました。周辺地図を表示しながら読むとお城の位置関係がわかってより楽しめると思います。

はじめに

初めまして、島田市博物館 学芸員の岩﨑アイルトン望と申します。
みなさんは、静岡県島田市に遺構が現存する諏訪原城という城をご存じでしょうか? 武田信玄の子・武田勝頼が、1573年(天正元年)に家臣・馬場美濃守信春(信房)に築かせた山城です。
武田勝頼といえば、NHK大河ドラマ「どうする家康」で眞栄田郷敦さんが演じ、大きな話題を呼びましたね。勝頼は、当時徳川家康の勢力下にあった遠江国(静岡県西部)を獲得するため、諏訪原城を遠江国と駿河国(静岡県中部)の国境に築かせました。

1575年(天正3年)に勃発した「長篠・設楽原の戦い」にて勝頼を破った家康は、勢いそのまま諏訪原城を落とし、自身の城としました。
武田氏が信仰した戦の神・諏訪大明神から名を取った城名を嫌ったのか、家康は諏訪原城を「牧野城」と呼び、何度も改修工事を行い、城の強化を図りました。1590年(天正18年)に、豊臣秀吉の命で家康が関東へ移封されたことに伴い、諏訪原城は廃城になったと考えられています。

じつはこの諏訪原城、2023年(令和5年)に、築城されてからちょうど450年を迎えました。
島田市博物館では、第91回企画展「築城450年記念 諏訪原城」の開催や、落語家の春風亭昇太師匠が隊長を務める「諏訪原城応援隊」のみなさんとイベントを実施するなど、諏訪原城の記念すべき年を盛り上げるべく、様々取り組んでいます!

今まで諏訪原城を知らなかった人も、ぜひこの記事を読めばきっと諏訪原城ファンになること間違いなし! 武田勝頼、徳川家康という若き武将の国獲りの舞台となった諏訪原城の短く、数奇な歴史をお楽しみください。

様々な城の種類

「城」といわれると、姫路城や松本城のような「天守閣」や「石垣」があるお城を想像される方が多いかもしれません。天守閣や石垣を持つお城は「平山城」や「平城」という種類の城で、主に戦国時代末期から江戸時代にかけて作られた形態の城です。

それに対して、諏訪原城は「山城」という種類に分類される城で、天守閣や石垣はありません。
代わりに、土を掘って作る「堀」や、土を盛って造成した「土塁」を持ち、自然地形を巧みに活かした土の城です。

城は、敵の侵入を阻むために堀や土塁を設けて区画した砦を起源に持ち、吉野ケ里遺跡(佐賀県)のような弥生時代の環濠集落も城の起源と言われています。
1467年(応仁元年)から始まった応仁の乱を契機に、室町幕府の権威は揺らぎ、日本各地で戦国大名が登場します。戦国大名は自身の力で領国を広げるため、天然の要害である山に山城を築き、そこを戦闘拠点に戦を繰り広げました。
時代が進むにつれ、城は「戦闘拠点」と併せて「権威の象徴」、「政治拠点」としての役割が付され、華美な天守閣を持つ平山城や平城として、領民が住む平地に築かれるようになったのです。

なぜ武田勝頼は諏訪原城を築かせたのか?

それでは、諏訪原城が築城される前後の時代背景を見てみましょう。
1560年(永禄3年)、今川義元が織田信長に討ち取られると、今川領である駿河・遠江は戦乱の舞台となりました。新当主・今川氏真に見切りをつけた、甲斐の武田信玄は、今川氏から独立した徳川家康と共に、1568年(永禄11年)に旧今川領へ侵攻したのです。
信玄と家康は、大井川を境に「遠江は徳川領、駿河は武田領として旧今川領を分け合う」と密約を交わし、互いの領国から侵攻しました。

この共同侵攻により、協力関係にあった信玄と家康でしたが、遠江の領有をめぐって軋轢が生じ始めます。
信玄との戦いを想定した家康は、越後の上杉謙信と同盟を結びました。宿敵である謙信と家康の同盟を知った信玄は、1571年(元亀2年)に徳川領への侵攻を開始し、両氏は約10年にわたり戦闘を繰り広げます。

1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いで、信玄は家康に圧勝しますが、1573年(元亀4年)に病により急死してしまいます。
信玄の跡を継ぎ、武田家新当主に就任した勝頼は、父・信玄の遺志を継ぎ、徳川領への侵攻を継続しました。1573年(天正元年)、徳川領である遠江へ侵攻するための戦闘拠点として、勝頼が大井川の西側(遠江側)に築かせたのが諏訪原城です。

【左】遠州諏訪原城図(島田市博物館蔵)【右】諏訪原城絵図(島田市博物館蔵)

勝頼は、当時徳川方の城であった高天神城(静岡県掛川市)の攻略を、遠江侵攻における第一目標として掲げました。
既存の田中城(静岡県藤枝市)・小山城(静岡県榛原郡吉田町)から高天神城への兵士・物資補給ルートに、新たに築いた諏訪原城を組み込むことで、高天神城攻略を確実なものにしようとしたのです。じっさいに、1574年(天正2年)、勝頼は諏訪原城を拠点に、高天神城攻めを成功させました。

難攻不落として知られていた高天神城を落とした武田勝頼の名は全国に轟きました。
高天神城攻略は、遠江侵攻の足掛かりとしての軍事的な意義だけでなく、武田家の新当主・勝頼の名声を高める目的もあったのです。

高天神城跡

諏訪原城は何が強かったのか?

諏訪原城の特徴、その強さの秘密をご紹介します。まずは、その立地に強さの理由があります。諏訪原城は、牧之原台地(静岡県中西部に広がる台地)の北端部に築かれました。城の東側を大井川が形成した断崖絶壁に囲まれた天然の要害なのです。さらに、城の南側をのちの東海道が通っており、主要街道を監視する要衝としても機能しました。

諏訪原城地形図

また、諏訪原城には、「丸馬出」と呼ばれる防御装置が城内の各所に見られ、現在も良好な状態で現存しています。
馬出とは、虎口(城の出入口)の前に堀を隔てて設けられた曲輪※のことを指し、曲輪の形が半円形のものを丸馬出、四角形のものを角馬出と呼びます。武田氏の築城術には丸馬出を多用する特徴があります。
丸馬出を設けることで、攻めてくる敵はまっすぐに虎口に攻めることができず、敵の侵攻経路を制限することができます。また、馬出に兵を待機させておくことで、攻め込んでくる敵に対して、弓矢や鉄砲で攻撃することも可能となります。つまり、丸馬出は攻守両面を担う砦だったのです。

※曲輪…尾根や斜面に作った平面地で、堀や土塁を設けて区画した区域

諏訪原城跡の丸馬出(二の曲輪北馬出・中馬出)

徳川家康による諏訪原城攻略

高天神城攻略により勢いをつけた勝頼は、さらに西へと侵攻しました。
しかし、1575年(天正3年)に織田・徳川連合軍との間で勃発した長篠・設楽原の戦いでは圧倒的な兵力差の前に、武田軍は大敗を喫します。この長篠・設楽原の戦いでは、山県昌景(やまがた まさかげ)や馬場美濃守信春など信玄時代からの重臣を多く失う結果となりました。

長篠・設楽原の戦いに勝利した家康は、遠江を勝頼から取り返すべく攻勢に転じました。1575年(天正3年)7月、ついに諏訪原城攻めを開始します。
駿河・遠江の国境に位置し、武田氏の兵士・物資補給ルートにおいて重要な位置を占めていた諏訪原城攻略が成功すれば、武田氏の遠江支配に楔を打ち込めると家康は考えたのです。徳川軍は、のちに徳川四天王として名を轟かせる本多忠勝、榊原康政らを先鋒として諏訪原城を攻めました。徳川家臣のうち、諏訪原城周辺出身の従者を多く抱えていた鳥居元忠は、斥候※として進軍した際、武田軍から銃撃を受け、生涯歩行困難になったと伝わります。
じつは、この徳川家康による諏訪原城攻めには、旧駿河・遠江の国主・今川氏真が徳川方の将として従軍していました。家康は、氏真を徳川軍の将として従軍させることで、自身の駿河・遠江支配は「旧国主のお墨付きを得ている」とアピールしていたのだと考えられます。

徳川軍による攻撃が開始され約1か月後の8月24日、諏訪原城を守る武将たちは徳川軍の猛攻に耐え切れず小山城へ敗走し、諏訪原城は徳川軍の手に落ちました。

※斥候…戦闘において敵情・地形を偵察する兵、少数の部隊

「牧野城」として大改修を施される

諏訪原城を落とした家康は、諏訪原城を廃城とせず、自身の城としました。
家康は、武田氏が信仰していた諏訪大明神の名を冠した「諏訪原城」という城名を嫌ったのか、「牧野城」と呼ぶようになります。また、家臣・松平家忠(まつだいら いえただ)を中心に、複数回にわたり城内各所に改修工事を施し、牧野城を強化しました。
平成21年~27年度にかけて行われた諏訪原城跡の発掘調査では、現在諏訪原城跡にて確認できる堀などの遺構は、ほとんど家康が新たに作らせたものであることが判明しました。家康が「丸馬出」をはじめとする武田流築城術を用いて、牧野城として強化したことは、諏訪原城に戦略的価値を見出していた何よりの証拠であると言えます。

さらに家康は、1576年(天正4年)に今川氏真を牧野城に入城させています。諏訪原城攻めの際の従軍と同様、駿河侵攻の旗印として氏真を利用したものと思われます。

しかし、1590年(天正18年)の北条氏滅亡後、豊臣秀吉の命により家康が関東に移封されたことに伴い、駿河・遠江地域での戦略的価値を失った諏訪原城は築城されてから20年にも満たない短い生涯を終え、廃城になったと考えられています。

おわりに

諏訪原城は、武田勝頼が父・信玄の遺志を継ぎ、遠江侵攻の第一歩として築いた山城です。
徳川家康はこの城を自身の城として強化し、駿河・遠江における戦闘の拠点として利用しました。また短期間ではありますが、旧国主・今川氏真も入城し、家康の駿河・遠江支配の一翼を担いました。

諏訪原城は、天下統一を夢見た名だたる武将たちの国獲りの舞台となった、まさに「兵どもが夢の跡」です。今年で築城450年を迎えた諏訪原城には、現在も丸馬出などの遺構が良好な状態で残り、戦国乱世の歴史をダイナミックに伝えてくれています。

本記事が皆様にとって、諏訪原城の激動で、短い数奇な歴史に興味を持っていただける機会になれば幸いです。

企画展開催中!
現在、島田市博物館では第91回企画展「築城450年記念 諏訪原城」が開催中です。9月24日まで。

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ご講演いただきました!

こちらの動画を見ていただくと、記事の内容がよりわかると思います。


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