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【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-2.「日本最初の星の城」の原典への旅(2)-戸切地陣屋の基礎テキスト「サヴァール教本」とその時代的背景-

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戸切地陣屋は「サヴァール教本」を手本に築かれた――文章にするとわずかですが、これまでに見たことのない文章ですし、戸切地陣屋の価値が凝縮された文章でもあります。
日本の城が基本的にその土地にあわせてカスタマイズして築かれるのに対して、戸切地陣屋はこういう土地にこの形で築くべきという「教本(原典)」をもとに築かれた、まさに根本から考え方が異なるお城なのです。

サヴァールは、フランス革命中に設立されたエコール・ポリテクニーク(理工科学校)でA.F.ロメ(1759-1826)麾下の将軍副官・図版収集キュレーターを務めた後、ナポレオンによって創設された士官養成機関であるサンシール陸軍士官学校へ要塞学教授として招かれます。そして、当時同校の総長を務めていたJ.N.ベラヴェーヌ(1770-1826)により、前任者ルクレール(生没年不詳)によって作成された教本をより「わかりやすく」改訂するように命じられます。これを受けてサヴァールは、前歴における経験を活かし、各テーマについてより詳細かつ深く分析し、かつそれらを投影法を用いた図版で解説したものへと教本を生まれ変わらせます。これが1813年に著されたサヴァール教本(図23、仏語原本:"Cours élémentaire de fortification"、上記内容はその緒言に拠る)です。

図23.サヴァール教本(原語・1825年版)の表紙。これがオランダに渡り補注を加えられて翻訳。「蘭学書」の一つとして日本に伝えられた。

このサヴァールの手になる教本は、1820年代になるとオランダの将官たちにも軍事教本として多く参照されるようになります。そして、オランダ国内でも自国語への訳本に対する需要が高まり、これを受けてデルフト士官学校の技師であったナニングが当時のオランダ国内に合わせた補注を加え翻訳。これが日本まで伝わった蘭語訳「サヴァール教本」というわけです。

サヴァール教本の特徴としては、かつての伝ヴォーバン教本のように表題に「fortfication(築城術、と訳されることが多いです)」を冠しながら、その語はいわゆる「築城」だけを指しているものではない、ということです。防衛拠点となる城郭・堡塁とその周辺だけではなく、より広域……いうなれば「大砲の弾が届く範囲」すべて……を対象とした陣地における優位の構築、それを「fortification=要塞化」として説いているのです。

この背景をつかむためには、18世紀末から19世紀初頭の軍事における砲科の占める位置の変化を理解しなければいけません。
18世紀以前、大砲はその大きな威力から主に攻城や歩兵の支援に運用されながらも、生産における精度の不安定さ、低い機動性、高価が故の配備数確保の難しさなど軍隊における常備運用は難しいものでした。

18世紀以降、フランス軍においてこうした問題点の解決が図られます。このうち精度に関してはF.J.ヴァリエール(1667-1759)がJ.マリッツ(1680-1743)の発明した新工法を採用したド・ヴァリエール・システム(1732~)を制度化し改善。さらにJ.B.V. グリボーバルがその端緒を切ったグリボーバル・システム(1765~)の制度化によって砲身の軽量化と砲車の改良が進められ、火砲性能と機動性が両立されるようになります。
こうした数々の技術および制度の革命により、砲兵はフランス陸軍を構成する三兵(歩兵・騎兵・砲兵)の基幹としてその存在感を増すようになり、これが19世紀初頭のナポレオン率いるフランス軍台頭の原動力となっていきます(図24)。いわば「砲戦革命」といってよいでしょう。

図24.カール・ヴァルネ画「砲兵大佐と大隊指揮官」(1813)。大陸軍(ナポレオン時代のフランス陸軍)の砲兵のすがたを描いたもの。手に星形要塞の図面が見える。着弾砲火の様子も見え、攻守両軍が激しく撃ち合っていることがわかる。

サヴァール教本が著されたのは、まさにそうした砲戦革命の真っただ中、つまりは機動性を備えた砲兵を運用する(これは守勢である自軍だけではなく攻勢である敵軍も同様である)ことが前提の陣地構築が必須となっていく時代だったのです。
例えば大砲の有効射程距離で言えば、ヴォーバン時代の5~600mと比して有効射程は1000m強、さらにはそれより射程は短いものの曲射によって撃ち込まれ陣地内で爆散する榴弾砲(りゅうだんほう)が基本常備されるようになっており、戦闘において必要とされる彼我の「距離感」は以前と比較にならないほど大きく、かつそれを挟み撃ち合うことが戦闘の前提となっていました。

つまりは、サヴァールの時代(翻せば五稜郭や戸切地陣屋が築かれる直前の時代)においては、攻撃起点または防衛拠点としての堡塁構造、その最終ラインとしての稜堡式築堡の技術は継承されながらも、徐々に陣地構築の主眼は砲撃火力の到達する「火制範囲」における優位を先に奪取・確保し、敵兵力を自陣に到達する前に減じ滅する(陣前減滅)ための戦闘空間の構築に移りつつあったといえるでしょう。いわば「砲戦の時代」の幕開けと同時に「城の時代」の終焉に向けたプレリュードが奏でられ始めた時代……とも言えるかもしれません。

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