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【家康の謎】家康のブレーンにはどんな人たちがいたの?

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榎本秋の家康の謎

戦国大名、ひいては天下人にもなると、求められる知識や交流は莫大な範囲になる。
とてもひとりの人間がフォローできる範囲ではない。そうなると「ブレーン」、つまり相談役や顧問などと呼ばれるような、知識や助言、交流・コネの分野で活躍する人が必要になる。
これは現代の政治家や実業家と同じことだ。当然、家康にもブレーンはいた。

戦国大名のブレーンといえば、まず名前が上がるのは僧侶である。
この時代、僧侶は公家と並んで希少な知識階級であり、領地の運営や法律の制定などに欠かせない人材だった。家康も三河時代から多くの僧侶と交流を持って彼らをブレーンとして活躍させたと思われるが、特に家康のブレーンとして名前を知られているのが南光坊天海(なんこうぼう てんかい)と金地院崇伝(こんちいん すうでん、以心崇伝)である。

天海は天台宗の僧侶で、高徳の人物としてよく知られていた。
しかし、家康に見出されるまで、その前半生はよくわかっていない。そこから生まれたのが有名な「光秀=天海説」である。他にも将軍落胤説などもあるが、真相はわからない。
間違いないのは、彼が足利学校の卒業者で占いや呪術などの知識にも長けていたこと、また口が達者で他宗派との議論に強かったことから家康に見出されたことだ。結果、天海は家康の元で主に宗教方面において活躍し、天台宗という巨大勢力を幕府によって都合のいい方向へ制御するなど多くの功績を残した。

崇伝は足利一族のひとつ、一色氏の生まれである。
幕臣であった父の死後、臨済宗南禅寺で修行を始めた崇伝は、晩年の家康のもとで重用され、武家諸法度を初めとして多くの法度の作成、また外交に携わったのである。
そのきっかけは、豊臣政権・徳川政権の双方でブレーンを務めた師・西笑承兌(さいしょう じょうたい)の死であった。師の代わりとして召し出され、やがて自身の才覚を見出されて活躍するようになった、というわけだ。

ちなみに、僧侶ではないのだが僧侶の格好をしていた家康のブレーンとして、林羅山(はやし らざん)という人がいる。
浪人の子で、臨済宗の建仁寺に学んだが僧侶にはならず、学者として学問に励んだ。そして家康に仕えることになった。
なお、羅山はこの時頭を剃って僧侶の格好をしている。そのくらい、この時代知識といえば僧侶という固定観念があったのだろう。羅山は4人の将軍に仕えたのちに亡くなったが、林家は代々「大学頭(だいがくのかみ)」の官位を世襲して幕末まで続くことになる。

もちろん、僧侶ばかりがブレーンではない。いわゆる「神君伊賀越え」の登場人物でもある茶屋四郎次郎(ちゃや しろうじろう)は京都の商人だ。彼の家は永禄年間から徳川氏と取引があったが、家康と同じ歳の四郎次郎の時に特に関係を深め、京都の品や合戦用の物資などの買い付けで重宝されたようだ。
また、豊臣政権が立ってからは秀吉との間を取りもったり京都の情報を流したりするのにも尽力し、ブレーンと言って差し支えない人物であったと言える。

最後に、異色の人物を紹介しよう。日本での名前は三浦按針(みうら あんじん)、元々の名前は「ウィリアム・アダムス」……つまりヨーロッパの人間だ。
イギリス人で、イギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を打ち破ったアルマダの戦いにも船長として参加していた船乗りである彼は、オランダのリーフデ号で日本へやってきて、漂着する。ここで家康と出会ったウィリアムは、同僚のオランダ人ヤン・ヨーステンと共に家康の側近として重用されるようになり、幾何学や数学を教えたり、西洋風の帆船を作る指揮をしたりしたとされる。

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