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【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場-

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まずは戸切地陣屋が築かれる前日譚として、幕末における松前藩の状況について。
ぼくは松前藩が一時期、東北に移封されていたことも知らなかったのですが、蝦夷地へ復領した松前家にとって北方防衛の成否が藩の存亡に直結しており、かなり危機的な状況の中、開明的で優れた藩主が登場します。

前回の記事:はじめに

江戸時代後半・18世紀のロシアの南下以降、蝦夷地近海は露・英・仏・米ら外国船の跋扈するエリアとなり、江戸幕府にとって北方は国土防衛の重要地となりました。同地を領していた松前家は、1807年(文化4年)にこの任務に不適として陸奥梁川(やながわ)へと転封されます。
その後14年の時を経て、北方防衛の遂行を条件として松前家は復領を果たしますが、これは同時に、北方海防の成否が藩の存否に直結する問題となったことも意味しました。

松前藩は蝦夷地各地に台場を築き勤番を配し、文政期(~1831年)には年1度の藩全体での砲術演習を行う(『和田家諸用記録』『湯浅此治日記』)など防衛強化策に取り組みます。
しかし天保期(1832年~)になると砲術演習は途絶え、さらに11代・松前昌広(まつまえ まさひろ)の時代(1839年~1849年)になると彼自身の乱行(酒色にふける様が当時彼に仕えた山田三川により記録されている(『三川日記』)ほか参勤交代中に奥州・三戸宿で乱心した様を「馬鹿殿と皆々指ささぬ者なかりけり」(『萬日記』)と記録されています)や藩内の風紀紊乱などが漏れ伝わるようになり、再び松前家の移封・雄藩との領地入れ替えが幕閣の議題として取り沙汰されはじめ(『徳川斉昭・伊達宗城往復書翰集』)、彼らの蝦夷地領有は風前の灯となります。

そんな中、昌広の隠居により1850年(嘉永2年)に藩主を20歳で継いだのが12代・松前崇広(まつまえ たかひろ)でした(図3)。

図3.松前藩十二代藩主・松前崇広

のちに外様の身でありながら幕府老中・陸海軍総裁を務めるまでになる崇広ですが、その初仕事が本拠地・福山館の福山城(松前城)への改築でした。これは、開府以来200数十年に渡り無城大名に甘んじてきた松前藩にとって未曾有の快挙でした。

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崇広はこれと並行して、弾薬の5ヶ年計画での増産・備蓄、砲類の材料となる金属の買上と備蓄、台場群の改修、諸武芸の振興などの海防強化策を推進(『湯浅此治日記』などに遺る当時布達群より)。
さらにその一環として、藤原重太(ふじわら じゅうた)らを当代の碩学・佐久間象山(さくま しょうざん)が当時新たに開いた洋学塾「五月塾」へと留学させます。この藤原重太が、後に名を藤原主馬(ふじわら しゅめ)と改め、日本最初の星の城・戸切地陣屋を築くこととなります。

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