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【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)-

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藤原正蔵は間宮林蔵の蝦夷地測量に同行し、ロシア語が堪能なことから通訳をつとめるなど松前藩に重用されますが任地のエトロフで亡くなります。
その子の藤原重太(主馬)も父親に劣らず有能で、佐久間象山の門下生として最先端の学問を習得しています。この親子は知名度こそ高くないものの幕末の北方防衛において欠かせぬ人物だと言えます。

藤原重太(主馬)、そしてその父・藤原正蔵(ふじわら しょうぞう)については、数年前までは名前のみが知られる程度でしたが、戸切地陣屋研究と併行して行った調査により、その歴史的事績が徐々に明らかになってきました(特に父・正蔵に関してはここ1年の研究成果が非常に大きいです)。
ここでは、それらについて簡単にご紹介しましょう。

主馬の父・藤原正蔵は、1787年(天明7年)に杉村治孝(すぎむら はるたか)の三男として生まれ、1802年(享和2年)に藤原庫蔵(ふじわら くらぞう)の養子となりその家を継ぎます。
しかし、先述した松前家の梁川移封により、他の藩士とともに禄を失います。

その後浪人時代に諸学を修め、砲術家・赤松柔三郎(あかまつ じゅうざぶろう。主な著作に『海防辨(かいぼうべん)』など)と友誼を結び彼の元で赤松流砲術の皆伝を得たのち、幕府の松前奉行配下として間宮林蔵(まみや りんぞう)の蝦夷地測量に同行。その助手を務めた後、ロシア語に堪能なことを買われ当時ゴローニン事件の解決交渉のため箱館を訪れていたディアナ号副艦長リコルドの専属通訳に抜擢されています(『楓軒年録(ふうけんねんろく)』(図4)。この時の翻訳書簡は『亜魯西亜書翰(おろしやしょかん)』(図5)としてまとめられ、現在国立公文書館に所蔵されています)。

図4(左)『楓軒年録』(国立国会図書館蔵)所収の赤松柔三郎書簡に見える、藤原正蔵に関する記述(部分・抜粋)。赤枠で囲った部分は右から「藤原正蔵」・「間宮倫蔵」・「蝦夷地側(測)量」・「魯西亜船」・「リコルド」。
図5(右)『亜魯西亜書翰』(国立公文書館蔵)奥書。 立原翠軒(水戸彰考館総裁)の名で「此書ハ赤松柔三郎門人藤原正蔵と申(す)松前之役人ニ成至者、右之訳本公儀ニ指出葉本を内々柔三郎写取、加之書成」とある。

図6.『尾薩漂民私記』草稿抜粋(北斗市郷土資料館戸切地陣屋展・展示パネルより)

また、この松前奉行配下時代には北大西洋を漂流して帰国した督乗丸(とくじょうまる)船頭・小栗重吉(おぐり じゅうきち)よりその漂流体験を聞き取り、メルカトル図法で描かれた当時の世界地図や同海域に出現する各艦船旗のスケッチなどと併せて『尾薩漂民私記(びさつひょうみんしき)』としてまとめています(図6)。
この私記は写本が今も複数遺り、そのうち一冊は松前復領後に藩主・松前章広(まつまえ あきひろ)へ献本されたものです。

正蔵はその後松前家の復領とともに藩に復帰。最終的に150石の禄を得ます。北方防衛のエキスパートとして、松前奉行時代に1回・松前藩復帰後に2回、その最前線であるエトロフに勤番として赴き、自身3度目の同任務の最中、まもなく帰還という1828年(文政11年)3月13日に任地にて病没します。
まさしく北方防衛のためにその命を捧げた生涯でした。彼を慕う門人らにより護られその棺は遠く松前まで戻り、墓碑は没地エトロフと故郷・松前の2か所に建てられ、松前に建てられた墓碑には彼の生涯を顕彰する文が撰されました(碑文書写が現存)。

正蔵が没してから16年後、1844年(天保15年)。彼の息子・重太、のちの藤原主馬の事績のうち、現在確認できる最古のものが、同年に勤番としてエトロフに赴いたという記録です(松本家文書『天保十五辰年蝦夷地勤番名前』)。
父が命を落としたエトロフの地で、父が生涯を捧げ最期まで勤めた北方防衛を担う勤番として、同地にのこる父の墓標を前にした時、彼の胸に去来したものは一体なんだったのでしょうか。

次に重太が歴史に名をあらわすのは6年後の1850年(嘉永3年)、先述した藩主・松前崇広の北方防衛強化策の一環としての江戸留学、当代の碩学(せきがく=大学者)・佐久間象山が同年に開いた洋学塾「五月塾(さつきじゅく)」への入門です(図7)。
かつて、数多いる藩士の中からなぜ一門衆でもない彼が佐久間象山への入門者として選抜されたのか(同期の下国殿母(しもくに とのも)は重太より少し遅れての入門であったことが門人名簿の順列などからうかがえます)は疑問点の一つでしたが、近年明らかになった父・正蔵の事績を考えるに、あるいは北方防衛の功績者・尽力者である藤原家の後継者としての期待がその要因だった可能性もあるのではないでしょうか。

図7.佐久間象山「五月塾」門人名簿に見える藤原重太(主馬)(北斗市郷土資料館戸切地陣屋展・展示パネルより)

重太が象山の元で学ぶ姿についての記録はあまり多くは遺っていませんが、そのひとつ一つから彼の熱心な修学ぶりが伺えます。象山塾開塾直後に実施された松代藩領生萱村(いきがやむら)での砲術試演にも参加して5回中2回の試射を務めているほか、松前藩から象山に依頼された大砲鋳造の際には鋳造掛(がかり)を自ら志願しています。

なおこの依頼はのちに松前藩側が一方的にキャンセル(藩の公式記録にこれらに関するものが遺っていないあたり、江戸藩邸の独断依頼だったのかもしれません)。重太は師に対する藩の不義理に怒り、当時直属の上司トップである江戸留守居役・田崎与兵衛(たさき よへえ)に「義理を弁へぬは人に無之(義理をわきまえぬものは人間ではない!)」と言い放つなど師匠思いの姿を見せています。
なお、この破談の原因を作ったひとりが主馬と共に入門した下国東七郎(しもくに とうしちろう=下国殿母)ですが、彼はその後この際に働いた不義理不正が原因で象山に破門されています。

これらの松前藩に対する大砲鋳造依頼とその破談に係る情報が、直前の中津藩依頼の大砲鋳造の完遂までに2度の失敗を要したことと混同・誇張され、明治30年代の伝記本などによって「象山が松前藩依頼の大砲を同藩重臣らの前で試し撃ちし失敗した」というエピソードに創り変えられ現在も巷間(こうかん)に伝わっていますが、その実情は上述の通りです。
この経緯は象山から藩主・真田幸貫(さなだ ゆきつら=松代藩8代藩主)にあてた嘉永4年12月付書簡「大砲鋳造の件に関し松前藩へ情実を報ぜられんことを感応公に請う」に詳述されています。

この象山の書簡には、師に対し重太が語った言葉が次のように遺されています。
「先生御手(おんて)にて筒(つつ)・台(だい)ともに西洋法則通りの物出来候様(できそうろうよう)、第一国の為左様致し度(たく)。」(象山先生自ら西洋の技術通りの大砲・砲台ができるように願っています。なにより、国のためにそれを実現したいのです。)
この言葉から、重太が国元または日本での、象山流の西洋流砲術による砲台の築造について、なみなみならぬ熱意を抱いていた様が読み取ることができるでしょう。

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