攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】はじめに

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

北海道北斗市に存在する戸切地陣屋は、知名度こそ高くないものの訪問者の評価も高く、またその歴史的な位置づけにおいても五稜郭に先立って築城された日本初の星形要塞(稜堡式城郭)として大変価値の高いお城です。
この連載ではまだまだ知らない人が多い、あるいは存在こそ知っていてもその真価を理解できていないぼくのような人たちに対して、戸切地陣屋の魅力やすごさを北斗市郷土資料館の時田太一郎学芸員に解説していただきます。

北海道北斗市野崎に所在する松前藩戸切地(へきりち)陣屋は、中近世ヨーロッパにおいて対銃砲戦の城郭構造として発祥・発達した稜堡式築城術を日本で初めて採用した城郭であり、1855年(安政2年)の幕府による蝦夷地上知(あげち=知行地を没収すること)および函館平野一帯の警衛命令に伴い松前藩により築かれたものです(図1・2)。
これは日本における稜堡式城郭=星形要塞の代表例である五稜郭の竣工(1864年)に先駆けること9年で、その北方史・築城史における価値により、1965年(昭和40年)に国より史跡として指定されています。

図1.国指定史跡・松前藩戸切地陣屋の位置と星形本陣(直上から撮影)

運営当時の藩による公称は、史跡登録名ともなっている「戸切地陣屋」(『戸切地御陣屋心得書』『北門史綱』『松前町年寄番日記』『藤枝日記』『加賀家文書』など)。「戸切地」とは、陣屋西側を流下する河川「戸切地川」に因んだ周辺広域を指す地名で、アイヌ語「peker-pet(ペケレ・ペッ、明るいor美しい・川)」を語源としています。
その他、帰属する大名家にちなんで「松前陣屋」(『アナタヒラ松前陣屋絵図面』『蝦夷之夢』『北洲新話』)、または所在地点近隣の村落の名をとり「濁川(村)陣屋」(『峠下ヨリ戦争之記』)「文月(村)陣屋」(『南柯紀行』『蝦夷錦』)などと呼ばれました。ほか、幕府書類に「穴平(※)陣屋」がわずかに見えます。その後廃城より後の明治になって以降に、国郡設定以降同地が所属した濁川村が1881年(明治14年)に近接する清水村と合併した際に生まれた「清川村」の村名を冠した「清川陣屋」の通称が新しく生まれています。

※現地の呼び名は「アナタヒラ」「穴太平」「アナタ平」などと表記されていることから「あなたら」と呼ぶのが正しいですが、これが仮名読みの際に「あなたら」と誤読されたものでしょう。

図2.国指定史跡・松前藩戸切地陣屋の星形本陣(南側上空から撮影)

これまでの戸切地陣屋に対する評価は、基本的に現在残る星形の稜郭を対象としてのみ観測され、「小型の稜堡式土塁」「稜堡を一稜しか有さない不完全なもの」といった過小な評価に留まるほか、時には日本における稜堡式築城の歴史において五稜郭こそが最初であるとされるなど、評価はおろか認識すらされていない例も少なくありませんでした。

また、その評価の観点もいわゆる和式築城、「日本のお城」に対する視座のもと行われ、本来その設計・構築理念の基盤であったはずの洋式軍学・築城術の具体および実際、および当時の世界における稜堡式城郭群の実情と比較しての評価はほぼまったくなされていなかったといえるでしょう。

そこでここでは、わたしが平成29年度から継続してきた調査研究の中で徐々に明らかになってきた、戸切地陣屋の「日本最初の星の城(星形城郭)」としての所見をお伝えするともに、それをもってみなさまに戸切地陣屋の真価をお伝えできればと思います。

戸切地陣屋についての質問を募集中
この連載を読んで戸切地陣屋に興味を持った方も多いと思います。時田学芸員に聞いてみたいことがあれば以下のフォームから質問を送ってください。後日回答をいただく機会を作ります。
記事についての感想もお待ちしています!

kojodan.jp

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する