攻城団ブログ

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【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

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全10回にわたってお届けした戸切地陣屋の連載ですが、読者からたくさんの質問をいただきました(こうのからもひとつ質問を追加)。
現地のこと、連載内容に関すること、そこから派生した稜堡式城郭全般に対する質問など、さまざまな角度からの問いに対して時田学芸員が答えてくださっています。約18000字におよぶ、読み応えたっぷりの質疑応答となっていますので、ぜひお読みください!

読者からの質問とその回答

Q.時田学芸員が「現地でここは必見」とオススメできる見どころを教えてください(匿名希望さん)

やはり一番感じてほしいのは戸切地陣屋がかの地に立つ所以となったロケーションの良さですね。
それを感じられるおすすめのポイントは、正門の脇の土塁の上からながめる函館平野です。よく目をこらせば五稜郭タワーも見え、当時戸切地陣屋が何を守ることを目指していたのかを実感していただけると思います。

図1.戸切地陣屋正面側土塁から函館方面を望む

あとは稜堡式堡塁ならではの構造と機能を実感していただきたいですね。
例えば、稜堡(砲台)の側面(フランク)の砲眼の部分から隣接する稜角を覗いてみたり、土塁内側に設けられたバンケット(小銃兵用の足場)に立ってみたり。そうした「銃・大砲を手にして戸切地陣屋本陣の土塁を活かして守る側」の気持ちで外へと広がる視線で見てみると、新たな発見があると思いますよ。

超私的には、戸切地陣屋が位置する「野崎の丘」を下から見てみるのもオススメです。ただし、いずれもまわりに気を配り、安全に気を付けた上で楽しんでくださいね。

Q.陣屋の発掘や文献の調査で、一番、びっくりしたことを教えて下さい(河内守泰吉さん)

この5年間の研究ではずっとびっくりさせられっぱなしなのですが(笑)、中でも一番の驚きがあったは、現存する遺構の考古学(遺っている物質資料=「もの」を調べることにより人類の活動を探る歴史研究の手法)的な分析から導き出した星形本陣の幾何学的な設計構造が、当時のヨーロッパにおける稜堡式堡塁の設計の基礎となる定理と一致した時ですね。

この一致はさらに具体的なテキスト(サヴァール教本)の同定、さらには星形本陣だけでなく全体的な空間利用もこの教本に即しているのではないか……と大きく推論の可能性を伸ばしていくわけですが、何より驚きなのは、築造から約170年という年月を経て、さらにその間誰ひとりとして「(サヴァール教本における)定理」を認識せず通用に供してきたにも関わらず、そうした経年現状からの数値測定によって当時のテキスト上の数値との同定が可能であるレベルで造られているという、その緻密さと堅牢さかもしれません。

これを思うと、藤原主馬そして戸切地陣屋築造に係わった人々の「いいしごと」ぶりがひしひしと伝わってくる、そんな気がしませんか?

Q.藤原主馬が東奔西走させられてるけど、松前藩には主馬以外に有能な人はいなかったの?

才能ある方は決して藤原主馬以外にいなかった、という訳ではないでしょう。
しかし、彼の東奔西走に係るふたつの重大任務に関していえば、当時の松前藩には彼以上の人材はいなかった、と言えます。

連載1-3で紹介された、嘉永7年(1854年)4月~5月における藤原主馬の東奔西走

まず箱館で担っていたペリー艦隊の応接に関してです。直接の外交交渉は家老・奉行クラスがあたりますが、応接=交渉の補助および客員の日常的アテンダントとなると、西洋の事情に通じかつ外国語を含むスキルが必要となってきます。
とくにこの時は未だ先行きの見通せぬ北方防衛策の一環としての対外交渉ですので軍事的な知識も必要だったでしょう。それらを勘案した際、すべてを備えていた人材は藩に藤原主馬しかいませんでした。

工藤茂五郎の『亞墨利加一件届』によれば、主馬はペリーの箱館来航が明らかとなった1854年(嘉永7年)3月21日に応接方筆頭に命じられ、同25日には交渉役筆頭である家老・松前勘解由と同宿に移り、さらに応接チーム全体の人選・人数割を任せられています。

次にペリー艦隊の応接と併行して5月2日に実施された西洋流砲術稽古ですが、これに関しては言うまでもないかとは思いますが、当時の洋式軍学に忠実に即した砲術調練の監督を行う素養を持った人物もまた松前藩には藤原主馬しか存在しませんでした。
これは本文中にも記した通り、松前藩における軍制の西洋式への刷新が主馬の砲術師範就任以前にはその動きがみられず、逆に就任以降急速に進んでいることから見て、砲術のみならず軍事面全体を見てもそうした洋式軍学に基づく知見を有する人材が彼しかいなかったことを示唆しています。

当時「西洋流砲術師範」としてはもう一人、竹田作郎がいましたが、彼が改築に係わった松前城には洋式軍学に係る要素は一切反映されておらず、砲術以外の洋式軍学の素養を備えていたかは疑わしい部分があります。
加えて竹田はこの時樺太で起きていたロシア軍の進駐に対応する部隊の一員として北方におり不在でした。

つまりは、嘉永7年のあの時期、折悪しく他に例を見ない難題がほぼ同時に松前藩にふりかかり、かつそれをどちらも対応できる人材が藤原主馬しかいなかったが故に彼が東奔西走せざるを得なかった……ということになるでしょうか。
しかしそれを実際にこなしてしまう、主馬のすさまじいタフネスぶりにも驚かされます。

Q.数年前の冬に北海道の城巡りをした際、とくに大雪が降ったわけでも無かったのに、雪の壁に阻まれてしまいほとんど何も見えませんでした。陣屋を使っていた当時、雪が本格的に積もった場合はどのように対処していたのでしょうか?(jjianjieさん)

戸切地陣屋は現在除雪しておらず、土塁に囲まれ雪の逃げ場が無い上に木々の陰になるため融雪が進まず、一度積もり始めると、冬季の間はおいでいただいた時のように基本的に雪に閉ざされてしまいます。申し訳ありません。

ただ、これは雪国にお住いの方であるとおわかりいただけると思いますが、普通の街中でも黙って置いておくとどんな場所でも同じように雪に閉ざされてしまうのです。
ではなぜ、街中で暮らす人々の家々は雪に閉ざされないのでしょう? それは、降る度に皆で除雪=雪かきをするからです。現在でも長々と雪が降り続く時は一日に何度も何度も雪をかきます(雪かきが終って一息ついてふりむいたら「もう積もってる……」なんていうのも雪国あるあるですね)。おそらくは当時も同じだったことでしょう。

江戸時代の雪かきの道具は現在とあまり変わらず、長い柄のついた「コスキ(コウスキ)」と呼ばれる木製の長柄の雪べらで除雪を行っていたようです。

また、人が家屋の中で暮らしていると暖気が屋内にこもり、周辺の融雪も促します。戸切地陣屋には常時守備にあたる人員が配備され詰所・長屋が立ち並んでましたので、囲炉裏を焚く室内の暖かさもあり、また人の往来もありましたので、これらの条件が重なって、生活空間における除雪は行き届いていたのではないでしょうか。

Q.なぜ松前藩が最初に西洋流の城郭を築くことができたのでしょう? 独自で北方警護をやろうとしていたため準備が他藩と比べて進んでいたから?

大きなキーになるのはやはり藤原主馬という人物でしょう。彼の砲術師範就任後の松前藩の軍制刷新の動きは大きくとらえて「藩全体が西洋の砲術を習熟し旧来の軍事を一新すること」「沿岸台場の西洋流への刷新による海防の強化」という二つの柱がありますが、これはまさに師・佐久間象山が当時国防強化策として提唱していたものです。

これは余談ですが、象山は後に勝海舟あての書簡の中で、新城=のちの五稜郭の築城に関する話題の中で「今は本制の城よりも『キュストバッテレイフェルドフルシカンシング』(kust-batterijen veld verschansing、海岸砲台群・野戦防塁群)の築造こそが急務である」と記しています。

うち後者、「沿岸台場の西洋流への刷新」についての例を挙げましょう。この時刷新された台場6ヶ所のうち、白神岬台場についての図面が道立文書館にのこっています(図2)。その形状を見ると戸切地陣屋の稜堡によく似た尖端を呈し、また三角状の砲眼側面から山形あるいは台形断面を有する土塁によってつくられていたことが推定できます(図3)。

図2.白神岬台場図面(道立文書館所蔵)

図3.戸切地陣屋の稜堡と白神岬台場図面の形状比較(推定稜線は筆者加筆)

また(あくまで仮に、ですが)同台場疑定地の画像に台場図面の寸法・方角を合わせ配置し、さらに図上の砲眼それぞれの側壁の延長線を加筆すると、台場の水平射角は海岸線を広くカバーするようにお互いを補いながら広がることがわかります(図4)。
同時に刷新された他の台場群も同様の構造を有していたと推定すると、図5のように本拠・松前城をカバーする広域な海防網を形成していた可能性も考えられるわけです。ここには、あるいは品川台場などに影響を与えたエンゲルベルツの海防理論(図5-2)などの影響もあるかもしれません。

図4.白神岬台場疑定地と図面から推定した台場砲座群の水平射角 (国土地理院web公開の航空写真に加筆)

図5.安政期に刷新された台場群の疑定地と、配備砲群(安政期)の性能から推定した 「西洋砲台への刷新後」の松前沿岸における海防圏(国土地理院web公開の地図に加筆)

図5-2.エンゲルベルツの沿岸海防理論図(Engelberts, J.M. 1839 "Proeve eener verhandeling over de kustverdediging"より)

こうした動きを見るに、主馬が師・象山より学んだものは単なる技術だけではなく、国防・海防に至る、従来の「日本的」なものにこだわらない当時の軍事的実情に即した意識・発想に至るのではないか、と自分は考えています。

このような、当時であればともすれば「異端」とも取れる方針を実行に移すためには、それに理解を示し、かつ強力な後押しをいとわないリーダーである松前崇広が当時藩主を務めていたことも大きいでしょう。
事実、崇広が藩の軍制方針を大きく方向転換し、全面的な洋式へと刷新を試みた際の藩内守旧派の強い抵抗は史書記録の端々に垣間見ることができます。
もし、崇広が当時として「あたりまえ」の考え方をする人物であったとすれば、こうした西洋化の流れは芽を出すことすらなく潰れていた可能性は高いでしょう。

そして、これはまったくの運命の皮肉ですが、突如ふりかかった蝦夷地上知、そして陣屋(警衛拠点)築造という急務幕命がなければ、その直前までの藩内軍制の方針から見てそのまま海防強化策が続いていた可能性は高く、その場合、後の時代の流れを見ても、戸切地陣屋のような陸上砲戦特化の城郭が築かれていたかは疑問が残る所です。

つまり、ここまで挙げた要素のうちどれかひとつが欠けても現在戸切地陣屋は存在していない可能性が高く、「野崎の丘」という稀有の城地が残っていたことも含め、ある種奇跡的な巡り合わせがこの「日本最初の星形城郭」を生んだ、といっていいのではないでしょうか。

Q.時田様は今回の研究をされるにあたり、サヴァール教本を実際に読まれたのでしょうか?(仏語?オランダ語?) ちょっと興味があるのですが、一部でも日本語訳で読めたりしますか? 自分でも調べてみたのですが、アマゾンでは見つけられませんでした。

はい、実際に読んでいます。仏語原本・蘭語訳本・幕末の邦訳本、すべて読みました。

戸切地陣屋についての研究を始めた時点、さらにはサヴァール教本に辿り着いた時点でも、教本の日本語訳はおろか「(軍人としての)ザヴァールという人物」についてすら先行する情報は文字通り皆無に等しい状態でしたので、彼の来歴および史的位置づけも含め、今回調査を進めていく中で原典および同時代の史料群の精査・解読の中から整理し知得していったものになります(なのでまだまだ調べる余地は存在すると思います)。どういった文献に目を通しているかは、「5.おわりに」に記載した引用文献を参照いただければと思います。

サヴァール教本に関しては、原語のうち仏語本("Cours élémentaire de fortification")および蘭語本("Beginselen der versterkingskunst")のいずれも研究機関などによってスキャンおよびデジタルアーカイブ化されたものがGoogle ブックスなどを経由して参照することができます。
また、日本語でも(現代語訳は現在存在しませんが)幕末当時に江川英龍(えがわ ひでたつ)の臣下である矢田部卿雲(やたべ けいうん)によって邦訳された『警備術原(けいびじゅつげん)』(『強盛術原』の題もあるようです)のうち盛岡市中央公民館蔵のものが国文学研究資料館提供の「国書データベース」にて参照できますので、内容をつかむのにオススメです。

自分が調べるにあたっては、まず資料を探して行き当たったのが仏語原本と蘭語訳本なのでこの両者を基本として解読・精査していきました。その後『警備術原』に行きあたってからはこれを参照しておおよその内容の目安をつけ、該当する章について原本から抄出し訳して内容を照合・確認する、という手順を踏むことができるようになったので大分楽になりました。

原語邦訳については原著データをOCRにかけテキスト化し、DeePLなどの翻訳を活用しておおよそを訳し、さらに細部を辞書等や用例で確認して精度を上げるよう試み、また『警備術原』の内容と照らし合わせ……といった作業を繰り返しながら行きつ戻りつして確かめつつ、といった感じで進めています。

上述した作業のような一次史料データへのアクセスおよび解読支援は、いずれも現在webを通じた平易な手段で利用可能なものです。
とても便利な時代になったなあ、とつくづく実感するとともに、どんどん活用していっていただきたいなあと思います。今回の連載がそういう方面でもみなさんにとって何らかのヒントになれば幸いです。

Q.戸切地陣屋に据えられた各砲はまだ無施条の実体弾使用と考えてよろしいか? 戊辰戦争陸戦で多用された四斤山砲と比較しても、最大射程が短めに感じるので質問します(DDさん)

はい、いずれも無施条の滑腔砲になります。現在確認できるうちでは、1859年(安政6年)段階で配備されていた砲類は図6のようになります。

図6.戸切地陣屋に配備されていた大砲(安政6年時点)

これが1860年(安政7年)になると唐銅三貫目筒(24ポンドカノン砲)主体に更新され、配備砲数も27基を数えるなど、砲台における固定した火力起点のみならず「野崎の丘」の広いフィールドを活用した砲兵展開が(理論上は)可能だったことが伺えます。

戸切地陣屋本陣を火力起点として、当時の配備砲類での射程範囲(=戸切地陣屋の最大火制範囲)を現在の地図に重ね合わせたのが図7になります。これを見ると、当時の陸路による蝦夷地往来における主要街道であった沿岸追分~一本木~千代田~大野村経由ルート、および裏道であった濁川村・文月村経由ルートのいずれもその射程内に収めており、広範な視認可能区域も併せ、接敵進軍する敵軍を早期に先制砲撃可能な立地であったことが伺えます。

筑波大図書館所蔵の『蝦夷日記』(安政期)には「(松前の)根守(森)東、大筒鋳物師場多し、職人其処ニ住ミ居、四五十ポンド程鋳立ニなるよし二候鋳型等拵なり」とあり、当時ある程度の大型滑腔砲については自国生産可能な拠点を藩内に設けていた可能性があります。本編でも触れたとおり、藤原主馬は象山に師事していたころ大砲の鋳造係に自ら名乗り出ており、その技術も修得して国許に持ち帰っている可能性はあるでしょう。

図7.戸切地陣屋配備砲類の最大射程距離(国土地理院web公開の地図に加筆)

これがこのまま順調にアップデートが進めば、戸切地陣屋はさらなる軍事的要点ともなりえたのでしょうが、残念ながら四斤山砲が活躍し出す時代である1860年代半ば以降に関しては、それらを輸入するあるいは自家生産するだけの余力は松前藩には残っていなかったと思われます。

箱館戦争勃発後の松前湾への旧幕府軍・蟠龍艦侵入の際、沿岸台場からの砲撃は同艦にまったく届かず、艦上から「陸上の男女を弁ずる(陸上にいる男女の区別がつく)」(『蝦夷之夢』)ほどの距離まで深く湾内に侵入されるまでになってようやく同艦に届くも、航行に支障すら与えることができませんでした。
この一件を以て旧幕府軍は「松前藩は施条砲を持たない」と判断しています。

なお、この蟠龍艦侵入の約2か月前、クーデターにより藩政を握った正議隊(せいぎたい)による「得失の判断」(『北門史綱』)により、かつて安政期に西洋式へと刷新された台場群はほぼすべて廃されています。
また、藤原主馬もそれと前後するように藩史から突如姿を消します(箱館戦争後に正議隊を糾弾した『庚午弾劾録』には、「正議隊により微罪をもって死に追い詰められた者」の一人として主馬の名前が挙がっています)。彼の後任として砲台奉行についた池田修也は、『旧館藩士族殉難調』によれば宝蔵院流槍術の目録を有していますが、砲術の習熟に関する記録はまったく見つかっていません。

Q.キルゾーン=十字砲火を前提にする考え方は日本の桝形虎口や横矢掛り、屏風折などにも言えることなのですが、西洋式とのちがいは射程距離ですか?

まず、キルゾーンは十字砲火を前提にした概念ではありません。「キルゾーン」とは現代の砲戦においても使用される「敵を効果的・効率的に殲滅するための空間」をさす言葉なので、砲科の性能・能力がそれを満たすに十分であればその構築に十字砲火は必須の条件では無いのです。
ですので、ひとまずここは質問のご趣意を汲みつつ回答するため、「洋式稜堡構造における十字砲火と和式築城に見える十字砲火の差異」と「キルゾーンと日本の桝形虎口・横矢掛などとの差異」とに問題を切り分けさせていただこうと思います。ご容赦下さい。

では最初に、和洋の十字砲火のあり方の差異について読み解いていきましょう。
洋式の稜堡式構造と日本における桝形虎口・横矢掛(よこやがかり)などを比べると、確かに異なる方向から相手を射撃する=十字砲火を可能とする、という側面で見れば同一といえるかもしれません。ここで両者の差を挙げるとすれば「効力」および「運用」の範囲、となるでしょうか。

和式築城における桝形虎口・横矢掛などは、その構造上射線が交差する範囲が限定されるため、攻め手がその効力範囲に入るまで威力を発揮できません。
つまり、十字砲火の利点が活かされるのは特定領域への敵の侵入という限定されたシチュエーション下のみになります。また、その想定状況も郭内への敵の侵入、あるいは外壁への接敵と、その運用の範囲が防衛拠点から見て近距離・内部に限定されます(図8)。

図8.横矢掛・屏風折(びょうぶおり)における十字砲火効力範囲イメージ。色の濃い部分が十字砲火が機能する範囲。射線の交差する範囲が限定されるほか、直角に交わる壁構造が、横撃する射手の正面射角のうち半分を奪っていることがわかる(水平射角については、鉄砲狭間での取り回しを想定し左右30度・計60度と想定)。

一方、稜堡式堡塁においては、斜行しつつ突出した稜堡・稜角が常に隣接し合うという構造的特徴により、拠点周辺は全方位に渡り常時十字砲火の効力下に置かれます(図9)。
とくに、拠点入り口が位置する幕壁は稜堡あるいは稜角に挟まれた奥にありますので、これを攻略するためには、そのど真ん中=十字砲火が最も密に効力を発揮する範囲を抜けねばなりません。

図9.稜保式堡塁(四稜堡)における十字砲火効力範囲イメージ(半周)。色が濃いほど十字砲火が強く機能する。水平射角は、戸切地陣屋砲眼における最大値90度(左右45度)と想定した。その範囲は堡塁全周に及び、攻城の要点である幕壁に近づくほどその効力を増すことがわかる。

こうして両者を比較してみると、同じ十字砲火の運用でも、その効力が戦闘の中に占める比重、そしてその及ぶ範囲が和・洋でまったく異なることがお分かりいただけるかと思います。

次に、虎口・横矢掛などが持つもうひとつの機能、「敵の進撃ルートを一定のエリアに限定させ、優位または一方的に攻撃できる空間をつくりだす」という側面を、ご質問の中にあった、19世紀以降の砲戦における「キルゾーン」と比較してみましょう。

本編3-1~3-3において解説しましたが、戸切地陣屋築造の先駆ける19世紀初頭の段階で、当時すでに攻防両者ともに1000mにおよぶ射程距離を有する砲兵の運用は戦闘における常態となっていました。
城塞すら多大なダメージを被る長距離砲の運用に加え、近・中距離(=前時代の砲戦における通常交戦距離)へとさらなる接敵を許せば、1784年にイギリス軍人ヘンリー・シュラプネルによって開発されて以降対人・対非装甲を目標とした兵器として威力を奮っていた榴弾(図10。榴散弾、シュラプネル弾とも)を曲射により城塞防壁越しに撃ち込まれ、大きな被害を被ってしまいます。

図10.榴散弾(左:シュラプネル弾、右:E.M.ボクサーによる改良版・1852年製)の構造。通常弾に替え撃ち込まれ、信管を用いた時差爆発により敵兵の上空・前方で炸裂し破片と散弾を飛散させる( D.T.ハミルトン著1915『榴散弾製造法』より引用)。

このように、高射程あるいは高威力の砲科による交戦が前提となっていくに従って、戦闘においては可能な限り敵を「優位な位置から」「より早く」「より本陣に近づく前に」減衰または殲滅することが求められるようになっていったわけです。

上記のような砲科能力の向上・戦闘前提の変化により、砲弾の届く「射程範囲」は、自陣の持つ火力によって相手勢力を制圧可能な範囲、すなわち「火制範囲」と同義となっていきます。
この時代以降の防衛は、この火制範囲を如何に相手に先んじて構築するかという、ある種の空間争奪戦となっていきます。

そして、こうした戦闘において重要な「優位先達」「陣前殲滅」を実現させるために、攻め手を無防備かつ不利な状況へと追い込むべく、条件を整え事前に準備された広大な無遮蔽物空間が19世紀の砲戦における「キルゾーン」というわけです。
戸切地陣屋の場合で言えば、丘全体が虎口と同じ役割を果たしているようなもの、と考えていただければ近いかもしれません(運用の規模や前提そのものが異なるので比較対象として適当ではありませんが、参考までに数字を挙げると大阪城大手虎口の面積が1550㎡。いっぽう戸切地陣屋の所在する「野崎の丘」のうちキルゾーンに該当する範囲は約40万㎡です)。

これは、和式砲術では性能上実現自体が不可能なものでした(※)。さらに、洋式軍学においても、大砲の技術革命が起きる18世紀より以前(例えばヴォーバンの時代)においても存在せず、19世紀欧州において初めて出現する戦闘の概念であることは、本文3-2で解説したとおりです。

※18世紀末段階での和式砲術における威力について記された文献として東北大学附属図書館所蔵の「銃術軽弁問答」(18世紀末成立)がありますが、その中の記述を引用すると、五百目大砲(長さ五尺=約1.5m・重さ百三十貫目=約487kg)の威力を誇る表現として「三・四町(約330~440メートル)にては一人の大将を必獲する」というものが出てきます。ほぼ同じ時期にシュラプネルがその距離を優に超える射程距離をもつ榴散弾の開発に成功していたことを思うと、当時の和・洋砲科の間にある歴然とした差が伺えます。

つまり、当時の日本が乗り越えなければならなかった壁は、

  • 15~18世紀の長きをかけて十字砲火を常用活用するレベルまで進化をとげた銃砲運用とその戦闘に合わせて機能特化していった欧州稜堡式城郭に対する理解
  • 上記に加えて、19世紀前半に急速に進歩した長距離・高火力での砲戦を前提とした、火制優位の獲得を目指した陣地構築とその戦闘概念への理解

この二段構えだったと言えます。そして、今なおこの1枚目の壁の手前で止まってしまい進めていない、というのが日本の「稜堡式城郭」研究における現状の課題ではないかな、と自分は考えています。

Q.五稜郭以外に、四稜郭や三稜郭が国内にはありますが、教本では基本は5なのでしょうか? 逆に6以上のケースはありますか?(こうの)

まずは、今回のご機会をいただいたことに深い感謝の意を表します。自分だけではとうてい届かなかったであろう全国のお城好きの皆様と、戸切地陣屋の真価と魅力を共有できたこと、その御縁をいただけたこと、本当に得難い機会でした。ありがとうございます。

では、質問にお答えしていきましょう。

この「教本」という言葉を「稜堡式築城と幾何学との結び付きが進んだ17世紀以降に、その理論を学び修めるためにまとめられた文献群」と捉えるならば、その中で基本となっているのはいずれも四稜堡です。

まず、幾何学的に稜堡式築城の基本設計を整理した教本の代表例である伝ヴォーバン教本(1691)では、要塞の平面形状について(1)真円の弧を等分割しその点を結んだ正多角形からなる外形線(2)(1)の頂点と真円の中心を結んだ線を基準に堡塁設計の基本形を描く、という方法を例示していますが、その具体例として最初に例示されているのは正方形を基準とした四稜堡(本文中に引用した図)であり、五稜堡はその応用パターンとして解説されています。

ヴォーバン自身の築城の実践例について見てみましょう。
世界遺産となった「ヴォーバンの防衛施設群」の構成資産には稜堡式城塞・市街設計・塔堡や橋など様々な建築物が含まれますが、そのうち星形城塞について抜き出してみると、
(1)四稜堡:ブザンソンの城塞、モン=ルイの城塞、サン=マルタン=ド=レの城塞
(2)五稜堡:アラス城塞
(3)八稜堡:ヌフ=ブリザック
となります。数多あるヴォーバンの「作品」からの抽出例とはいえ、最もシンプルである四稜堡が目立ちますね。また、質問の中にあった「6以上の(星形堡の)ケース」があることが早くも判明しました。

おもしろいのは、稜堡と現地地形を組み合わせた、いわゆる星形をとらない不定形なものも同様にヴォーバンの「作品」の中には数多くあることです(世界遺産の構成資産の中で言えばブライ城塞・レ=サレット砦・トロワ=テート砦・ランドゥイエ砦が該当)。
伝ヴォーバン教本の中でも、不定地形や旧来の非多角形城塞を、稜堡構造の応用で強化する術について詳述しています。

つまり、稜堡式築城・築堡における形状や稜の数はあくまで構築する箇所の地形、あるいは戦力、あるいはマンパワーなどの諸条件を勘案した上で最適な防衛構造を作り上げるために可変・増減するものであるということ――言い方を変えれば、機能追及の結果「星形に『なる』」ことはあっても、「星形に『つくりあげる』」こと自体はヴォーバンの稜堡式築城の目的ではなかった、ということです。

ただそれでもなお、そうした多種多様な状況に合わせた応用に耐えうる「設計における基盤」となる「基本定理」は、教本において提示された「真円弧の等分割により導き出した正多角形を基盤とする多稜星堡」であり、その基本中の基本=理解の起点こそが、最もシンプルにその素形たる正方形を描出することが可能(かつ従来の方形城塞を改修・転用に利用しやすい)な四稜形であった、と言えるでしょう。

その後時代が進むにつれ築堡技術も変化していき、ヴォーバンは徐々に学史上の人物としてその名が出る程度にとどまるようになっていきますが、そんな中でもこの「基本定理」、とくに四稜堡を例とした理論だけは脈々と後世まで受け継がれていきます。
ヴォーバンの150年後に著されたサヴァール教本(1813)、さらに後に書かれるイギリスのストレイス教本(1848)においては四稜堡による「基本定理」の解説のみが記され、その他の多稜星堡は構造解説から省かれています。

以上をまとめると、「ヴォーバン以降の教本における、正多角形からなる稜堡式築堡術の定理における基本形は(真円弧線等分→正方形という作図の基礎から導かれる)四稜堡、稜保」ということになるでしょう。

では次に、稜堡式城郭の「稜」の数にはどれくらいのバリエーションがあるのか、世界各国の稜保式城郭で見ていきましょう。

まず四稜堡で言うと、フランスのカレ砦(17世紀末ヴォーバンにより築城)・ラ=プレ砦(17世紀末ヴォーバンにより改築)・ブレスクー島要塞(17世紀後半築城)、デンマークのクロンボー城外郭(17世紀増築)、ポルトガルのグラサ要塞(18世紀半ば築城)、ウクライナのゾロチフ城(17世紀築城)・コズリフスカ要塞・オリョル要塞(いずれも18世紀築城)、カナダのプリンスオブウェールズ城塞(18世紀改築)、ベトナムのディエン=ハイ城塞(19世紀築城)、アメリカのフォートユニオン(19世紀築城)・サン マルコス城(19世紀にスペインが構築)などが挙げられます。旧来の方形城塞からの改築のしやすさや新規構築する際の簡便さからか、幅広い地域・時代でその姿を見ることができます。

次に五稜郭と同じ五稜堡でみると、フランスのリール城塞(17世紀後半にヴォーバンにより築城)、南アフリカのグッドホープ城(17世紀築城)、アメリカのフォートインディペンデンス・フォートマクヘンリー・フォートオンタリオ(19世紀改築)、オランダのブルタング城(18世紀改築)、デンマークのカステレット城塞(17世紀改築)、イングランドのカンバーランド城塞(19世紀改築)などが該当します。

さきほど一足跳びに八稜堡を紹介しましたが、そのほかにも六稜堡以上の例は存在します。順に例を挙げていきましょう。

まず六稜堡としてはナールデン要塞(オランダ、17世紀)・アルメイダ城塞(ポルトガル、17世紀改築)が挙げられます。アルメイダ城塞はポルトガルの歴史上で隣国との激しい戦いが何度も繰り広げられた場所でもあります。

次に七稜堡としてはウィレムスタット要塞(オランダ、16世紀)があります。上述したナールデン要塞を含むオランダの城市改築を数多く手がけた軍事技師アドリアン・アントニス(1541-1620)の手になるものです。

八稜堡としては、マンジャラーバード砦(インド、18世紀末)が挙げられるでしょう。18世紀インドでの反英闘争において「マイソールの虎」の異名を取ったマイソール国王ティプー・スルターンが、当時同盟を組んでいたフランスの技術援助を受けて築いたものです。

5000人を超える市民をその壁内に内包し、九つの稜堡でその地を堅く守るのが、ヴェネツィア王国の築いたパルマノーヴァ城塞都市(16世紀末構築)です。その壮大な規模と「星形要塞」初期の姿を色濃く現代に伝える姿は圧巻で、2017年に世界遺産として登録されています。

このほか、前述した「星形を取らないものの稜堡を援用して防衛機能を強化した不定形城塞」を含めると、そのバリエーション・構築時期・構造・規模は正に多種多様と言えます。それは翻せば、銃砲戦の発達以降世界各地で受容された稜堡式築城・築堡技術の、それぞれの築城主体者が抱えた課題に応じた機能追及の所産であるといえます。

これらひとつ一つのバックグラウンドを丹念に読み解いていくことは、それぞれの星の輝きやつながりをより深めていく礎となるでしょう。その一歩として、まず自分は日本の戸切地陣屋について研究を進めていきたいと思っています。

最後に、「三稜郭」について触れましょう。ここで想定されているのは上総松尾城(以下「松尾城」)であるとのことですので、その構造について検討していきたいと思います。

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たしかに松尾城はその形状を広く知られるきっかけとなった『松尾城の歴史 特別篇』(松尾町史編さん委員会 1983)でも「三稜郭」と表現されています。
しかし、同書に所収されている縄張り図からその防衛構造を調べると、稜堡に該当する隣接区画を掩護可能な突出部は少なくとも五つ存在し、それらが所在する面においては稜堡式構造が構築されていることが判ります(図11)。

図11.松尾城の平面構造図(『松尾町の歴史 特別篇』松尾町史編さん委員会 1983)から稜堡該当部(図中「〇」)を析出し、その側面(フランク)からの砲撃方向(図中→)を加筆したもの。形状は変則的ながら、隣接稜堡による相互掩護が可能な構造であることがわかる。

ただし、稜堡式の強みである隣接稜堡による相互掩護が海側(図左下側)において実現しておらず、全周に死角なく銃砲戦の備えを取るいわゆる星形堡としての「〇稜郭」あるいは「〇稜堡」に該当するものではありません。
つまりは、松尾城は「三稜郭」ではありません。しかし、「三稜郭」ではありませんが、松尾城は稜堡式城郭である、といえます。

「〇稜郭」「〇稜堡」ではないけれど稜保式城郭である──そんなことがあるのか、とみなさんお思いになるかもしれません。しかし、思い出して下さい。先ほどヴォーバンの築いた稜堡式城郭を紹介するときに「稜堡と現地地形を組み合わせた、いわゆる星形をとらない不定形なものがある」と書いたことを。また、「稜堡式築城・築堡における形状や稜の数はあくまで構築する箇所に最適な防衛構造を取るために可変・増減し、「星形に『つくりあげる』」こと自体は目的ではない」とも書きました。
よって松尾城はまさしくその例に該当する稜堡式城郭である──と、自分は考えます。

こうした不定形の稜堡式城郭の具体的な例をひとつ挙げましょう。
先述した世界遺産「ヴォーバンの防衛施設群」の構成資産のひとつ、フランスのトロワ=テート砦です(図12)。

図12.トロワ=テート砦の平面図(18世紀、フランス)。不定形な山稜に併せて堡塁をめぐらし、さらに地形から予測される防衛上の負担にあわせて様々な規模・形状の稜堡や半月堡などを組み合わせて配置することにより防衛構造を完成させている。

拠点周辺のうち、傾斜が弱く攻められやすい東面~北面(図でみると上側)は稜堡を細やかに築き密な火線を展開する一方、地形が急峻で攻めにくい北西の斜面(図で言うと左下側)に面する辺は地形を活かした長大な堡壁を主体とし、横矢掛様の掩護が可能な構造ではありますが防衛に必要な火力起点を最小限に抑えています。

松尾城も稜堡の展開が見られない大手門側は比高10メートルほどの急斜面となっており、その地形を防衛に活かす構想であったとすれば、トロワ=テート砦における防衛構造と近似した、いうなれば「環境適応型」の不定形稜堡式城郭であった、と言えると思います。稜堡式城郭とは「こういうの」も「アリ」なのです。

稜堡式城郭・堡塁であるためには、まず稜堡という構造を活かした防衛機能を備えているか、が第一であり、その形状が星形をとるのはあくまで機能追及の結果による出力のパターンのうちのひとつに過ぎないのです(つまり、稜堡式城郭を「〇稜堡」「〇稜郭」と呼ばねばならない、あるいは分類しなければならないというのは「稜堡式城郭=星形要塞である」という先入観から来る誤った固定観念です。この機会に捨ててしまいましょう)。

以上を総合すると、松尾城は「三稜郭」ではありませんが、設計者・磯辺泰が、その限られた地形条件をめいっぱい活かし防衛構造を作り上げた稜堡式城郭といえます。
堡塁に隣接して武家屋敷・練兵場などの設備が存在したり、『松尾町の歴史 特別篇』内の記述を見るに砲類を配備可能な土塁構造であったか疑わしいなど、竣工時の五稜郭と同じく19世紀当時の砲戦に即した防衛構造であったとは言えませんが、「星形の呪縛」にとらわれず、奇しくもかのヴォーバンに近似した構造に到達した点は評価に値するのではないでしょうか。

なお以下は余談ですが、松尾城について「多角形要塞」等と表現する例を散見します。「多角形要塞/台場」とは、稜堡式堡塁に見られるような屈曲や凹辺を極力廃し、外形構造をシンプルな辺で構成される多角形とした、例えば弁天台場(図13)のようなものを言います。松尾城はこれに該当しませんので、多角形要塞に比定するのは誤りでしょう。

図13.弁天台場平面図(『北海道史/附録・地図』1918)。日本における多角形要塞のひとつ。

ではもし仮に「三稜郭」と呼ぶにふさわしい形状・規模だったとしたらどういう姿になるのでしょう。その例として、伝ヴォーバン教本の中にある「半稜保を有する三角堡」を引用しましょう(図14)。

図14.伝ヴォーバン教本(1691)に見える「半稜堡からなる三角堡(Triangle of Half Bastion)」

図を見ておわかりになる通り、各稜堡(通常の半分ではありますが)の側面(フランク)が隣接する稜堡尖端を射界におさめており、「稜保式構造における隣接稜角同士の掩護」という条件を満たした三稜堡は実際に作ることが(理論上は)可能ではあったことがわかります。

さらに時代を遡ると、16世紀スペインの建築家クリストバル・デ・ロハス(1555-1614)の著書"Teoría y Práctica de Fortificación"(『築城の理論と実践』、1598)の中にも三稜堡が見え(図15)、アイデア自体は古くから存在するようです。

図15.クリストバル・デ・ロハスの著作(1598)に見える三稜堡

ただし単独堡としての実践にはやはり問題があったのか、後世の稜堡式築堡教本においては、基本的に多角形堡の例として提示されるのは四稜堡以上となっていることを付記しておきます。

Q.龍岡城はすぐそばに山があり、五稜郭を見下ろせる位置にあるのですが、これはサヴァール教本的にはNGなのでは? そもそも山が多い日本では適応しづらい理論なのかもしれませんね。

確かに龍岡城は山に近すぎますね。南側・北側とも山裾まで200~250m程度しかなく、現在北側の山に設けられている展望台からも水平距離にして500m程度しか離れていません。山に挟まれているというよりは谷地形の中に築いているような状況です。
これは、サヴァール教本(19世紀)を引き合いに出すまでもなく、伝ヴォーバン教本(1691)の中ですでに「築城するに適した場所ではない」と一刀両断にダメ出しされている地形条件です。

地形条件だけでなく、稜堡式城郭の防衛機能の根幹である土塁についても問題があります。高さ2.3mととにかく規模が中途半端すぎます。砲眼も設けられていないため大砲は頭が出せず、五つの稜堡のうち砲撃が可能なのは一稜のみ、しかも砲座が稜堡の尖端とあっては星形を採った意味はまったくないでしょう。
さりとて身を隠すにはギリギリすぎて(面積にして15分の1しかない函館の四稜郭と大差ないというのはさすがにいただけないでしょう)、小銃兵の取り回しが関の山ではないかな、という感じです。

こうした諸状況を見るに、この城は実戦を想定して築かれたものではないのではないかな……と自分は考えています。

確かに立地や防衛施設の構造を見るにおおよそ戦向きではないものの、堡塁形状は非常に正確な正五角形を基準とする五稜堡をかたちづくっています。
注目すべきはフロント(稜堡・稜角の先端どうしを結ぶライン)の長さです。図上計測ではありますが、おそらく五辺すべて150mちょうどで造られているようです(戸切地陣屋は200mちょうど)。これは、少なくとも龍岡城の外形は、戸切地陣屋と同じくメートル法を用いた、ヴォーバンの「定理」に従った幾何学的設計に基づいて構築されている可能性を示唆するものです。

実戦機能はもたないものの、その設計のアウトラインとしては基本原則に則っている。そんな龍岡城は何のために作られたのか……あくまで私見ですが、龍岡城はおそらく「実戦」のためではなく「実践」のため、机上の理論を具現化するため……身も蓋も無い言い方をすれば「いっぺん造ってみたかった」から造られたのではないかな、と思っています。

先ほど展望台の話をしましたが、確かにああも綺麗に見えては実戦では致命的でしょう。
ですが逆に、出来上がりを確かめるには絶好なんですよね。なにせ戸切地陣屋も五稜郭も、空を飛ぶかタワーに登りでもしなければその形は確認できないんですから(戸切地陣屋が「星形城郭」であることがあまり知られていないのはそれが影響してもいるのですが……とまあそれは余談です)。

なので、重ねて私見ではありますが、おそらく龍岡城は戦術的セオリーを無視してあの位置に作ったのではなく、理論通りにやったけどほんとにその形ができたかな? という成果の確認、そしてそれをいつでも確かめられるようにわざとあの位置に作った、いわば超贅沢なジオラマ的お城だったのではないかな……と思っています。

そう考えると、龍岡城の状況を以てサヴァール以降の砲戦陣地構築が日本に適応しづらい理論ととるのはやや早計でしょう。
ざっくばらんに言えば、山が多いなら山の上に造ればいいのですから。ほかにも台地・段丘・あるいは丘陵と、砲戦における優位を導き出す地形はまだまだ各地に眠っているのではないでしょうか。

そして、先に挙げたヴォーバンのトロワ=テート城、あるいは松尾城のように、選んだ地形とそれを補う城郭構造を以て、目指す戦術理論の実現・実践を目指す。これこそが稜堡式城郭設計者の腕の見せ所、本領だったのではないかな、と思います。

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質問への回答を終えて

今回の連載は、これまであまりしっかりとは知られてこなかった「戸切地陣屋そして稜堡式城郭の魅力や真価」についてこの機会を活かし可能な限り余さず伝えたい……そういう思いで寄稿させていただきました。
連載のさ中、各回が更新されるたびに増える「あっぱれ」「いいね」など様々なかたちでいただく反響に、その向こうに見える読者の皆様の姿が感じられ、私事ながらとてもうれしく思っていました。

とはいえ同時に、何しろ今まであまりまとめられてこなかった内容ですので前提からひとつひとつ説明していかねばならず、結果文章総量も多く内容も複雑となり、(なるべくそうならないように頑張りましたが)ひょっとして読みづらくはなかったかな、「伝えよう」という気持ちの押売りになっていないかな……と密かに気をもんでいたのも確かです。

そんな中、非常に暖かな感想を多くの方からお寄せいただき、また「そういえばこのことについて伝えられていなかったな……」という間隙をスッと埋めてくださるような、鋭くまた興味深い質問をたくさんお寄せいただきました。

今回いただいたご質問は、陣屋自体の機能について・あるいは軍事面以外の運用について・はたまた「今の」魅力について……と、「戸切地陣屋についてもっと知りたい!」という観点、そして一方では「稜堡式城郭・築城についてもっと知りたい!」という観点と、いずれも今回わたしが皆様に伝えたかったポイントにしっかりとアプローチするものです。
これを見て拙稿が皆様のもとに届いていたことを改めて実感でき、これもまたとてもうれしく、そして回答に際し改めてひとつひとつの課題をしっかりと見つめ直す機会をいただくことができ、自分にとってとても有意義な「双方向体験」となりました。

改めて、感想ならびに質問をお寄せいただいた皆様、拙稿をお読みくださったすべての方々、そして今回の機会を下さった攻城団様に深く御礼申し上げます。ありがとうございました。

稜堡式城郭、そしてその背景となる洋式軍学についての日本における認識はまだまだ浅く乏しいものです。自分が戸切地陣屋について研究を進める中で、国内先行研究で参考になったものは皆無に等しく、ほとんど一から自分で調べ整理していかなければならなかったほどです。
とはいえ実際それらが置かれている状況を見れば、理論の受容・実践から廃城までわずか5~15年弱の存続期間しかなく、数万に及ぶ和式城郭に対して全国でも指折り数えることが可能な程しかない少なさでは、その評価において従前の「常識」に呑み込まれてしまうのは仕方がないことであったとも言えます。

しかし、今こうしてか細いながらもその実情にアプローチするための視座、道は拓かれつつあります。今回の連載が、そうした観点に基づき日本の稜堡式城郭に対する視野を広げ、引いてはその築城に際しそれぞれに「造り手」が込めた思いや果たした歴史的役割に、真っすぐ光が当たるきっかけの一つとなることを、心から願っています。

北斗市郷土資料館・時田太一郎

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