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【家康の謎】家康はなぜ上田城の戦いで自ら出陣しなかったのか?

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榎本秋の家康の謎

真田氏は小規模な大名ながら、家康をはじめとする戦国時代末期の人物を主役とする大河ドラマでは欠かせない勢力になっている。
2016年の『真田丸』の記憶がまだ新しい人も多いだろうし、今回の『どうする家康』でも、真田昌幸役には佐藤浩一氏が割り当てられているあたりからも、その役の大きさがよくわかるというものだ。
では、どうして真田氏はここまで大きく扱われるようになったのか。それは三度にわたって徳川氏を痛い目に遭わせたからであり、その一度目が先週の放送回でも扱われた、いわゆる第一次上田城の戦いである。

そもそも、真田氏は徳川に従属する大名だった。もっと遡れば武田氏の家臣であったのが、まず武田が織田によって滅ぼされ、続いてその織田も信長の死で混乱したため、独立大名化したのである。
とはいえ、旧武田領は上杉・北条そして徳川に囲まれていたから、まったく独立したままで勢力を保つことはできない。そこで真田は徳川に付いたのだが、新たな領地として得た沼田城について、盟主である徳川から「北条と和睦するにあたって沼田を含む上野国は明け渡すことにした」と命令があったのである。

時の当主、真田昌幸は自力で得た沼田明け渡しに納得せず、徳川に反旗を翻すことにした、というわけだ。徳川と北条に喧嘩を売る以上、味方になってくれるのは上杉しかいないので、さっそく手を結んでいる。
家康は大軍を送り込んで真田の本拠・上田城を攻めさせた。しかし、昌幸は地形を活かしてよく守り、かえって徳川軍に手痛い打撃を喰らわす。
そこで家康は井伊直政率いる援軍を送り込んだが、けっきょく決着がつく前に前回紹介した石川数正出奔事件が起きて真田どころではなくなり、徳川軍は撤退。真田の武名が響き渡ることになったのである。

さて、ここでようやく今回の問いかけに辿り着いた。
家康は上田城の戦いにおいて自ら出陣せず、家臣を送り込んだ。それはなぜだったのだろうか、という謎だ。資料を調べてもこれと言った理由は出てこないが、ふたつほど推測はできる。

ひとつは、そもそもこの時期の家康が大大名になっていた、ということだ。
父祖の地である三河どころか、駿河・遠江、さらには甲斐・信濃にまで手を伸ばしている。兵力も、それを率いる家臣もかつてとは比べ物にならないほどだ。
信長だって、その後期には各地へ方面軍を派遣して戦わせている。家康だって、個々の戦いは家臣に任せようと考えたとしても、おかしいことではない。

もうひとつは、この頃の家康は軽々しく動くわけにはいかなかったということがある。
前年の小牧・長久手の戦いはとりあえず和睦で終わったが、秀吉との関係は改善されていない。いつ秀吉が攻めてくるかわからない。ましてや、真田は前述した通り、この時上杉と手を組んでいるが、その上杉は秀吉との関係性が深いため、真田と連動して秀吉が攻めてくる可能性は十分にあった。
西に向かって目を光らせていなければいけない中、自ら真田程度を攻めるなど、家康には考えられなかったのではなかろうか。

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