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【家康の謎】三河譜代ってなに?

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榎本秋の家康の謎

今週は放送がお休みということもあって、久しぶりにちょっとストーリーから外れた解説をしてみよう。時代劇などでもしばしば出てくる「三河譜代」というワードを掘り下げてみたい。

そもそも「譜代」というのはどういう意味か。元々の言葉としては「代々その主家に仕えること。また、その臣下」(『広辞苑』第五版)という一般名詞である。ただ、江戸時代に限定すると、この言葉にはもっと特別な意味が出てくる。つまり「譜代大名」の譜代だ。
江戸時代の大名(いわゆる徳川大名、もしくは近世大名)は、大きく分けて三つあったとされる。すなわち、親藩大名、譜代大名、外様大名だ。
このうち、親藩大名はざっくりいえば家康の「親」族、すなわち徳川一族の大名だから明確に別物である。

一方、譜代大名と外様大名は家康(ひいては歴代徳川将軍の)家臣という意味では同じだ。違いは「いつから徳川家に仕えていたか」にある。
これもざっくり言ってしまえば、関ヶ原「以前」が譜代で、関ヶ原「以後」が外様である。つまり、天下人になる前の戦国大名・織田大名・豊臣大名だった頃から家康を支えていたのが譜代大名で、関ヶ原の戦いに勝利して江戸幕府を開き天下人になった家康に従うようになったのが外様大名と思えばおおむね間違いはない。

一般的に、譜代大名は石高こそ低いものの幕政に関わることができ、外様大名は石高が高い者も多いが幕政には関われないとされる。
また伺候席(江戸城における待合室)も譜代大名ならこことここ、外様大名ならこことここ、という具合に分かれた。

ここで予防線を張ったのは、譜代大名と外様大名の間にけっこう揺らぎというか、移動があるからだ。例えば仙石家は時期でいえば外様大名なのだが、当初は譜代大名扱いで、途中から外様大名に直されたのではないかという話がある。戸沢家のように時期的には外様大名のはずなのに江戸時代の最後まで譜代大名扱いの家もあった。
また、賤ヶ岳七本槍のひとりとして有名な脇坂家は、譜代の名門(堀田家)から養子を招いたことから譜代になっている。この脇坂家を含む六家が幕府に対して願い出をしたことで譜代になった「願譜代家」として記録に残っていることから、譜代と外様はやはり明確に分かれていたことがわかる。

さて、譜代・外様は基本的には時期の扱いという話をした。
人間はおもしろいもので、ひとつのグループができると、そのグループの中でも小さなグループに分かれていくものだ。
こうして、譜代の中でも「いつ仕えたか」の時期ごとに小さく分かれていったのである。

すなわち、徳川(松平)発祥の地である松平郷や、そこから進出した岩津、さらには分家して家康に繋がる血筋が勢力を確立させた安祥の地の頃から仕えている「松平郷譜代(岩津譜代)」あるいは「安祥(安城)譜代」。安祥から岡崎へ移るまでの「山中譜代」。そして家康誕生の地でもある岡崎時代の「岡崎譜代」。家康が飛躍して浜松に拠点を移してから、関東へ移り、そして関ヶ原の戦いまでの「駿河譜代」という具合だ。
有名どころでいうと、酒井や本多、大久保や石川などは「松平郷譜代(岩津譜代)/安祥(安城)譜代」で、榊原は「岡崎譜代」。武田の旧臣たちや井伊などは「駿河譜代」である。

「三河譜代」と言った場合は、今紹介したうち、「松平郷譜代(岩津譜代)/安祥(安城)譜代」から「岡崎譜代」であり、また家康の父親の広忠の時代から仕えていた家、という意味で捉えていいだろう。

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