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【家康の謎】家康はなぜ伊賀越えしたのか、他のルートはなかったのか?

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榎本秋の家康の謎

織田信長は本能寺で明智光秀の軍勢に襲われ、自害した。本能寺の変である。
以後、織田家中は主君の仇討ちと実質的後継者の座をめぐる大混乱に巻き込まれていくことになるわけだが、同時期に人生最大のピンチに追い込まれていた人物がいた。誰あろう、徳川家康である。この時の家康のピンチは、後世「三大危機」として三河一向一揆と三方ヶ原の戦いと並べられることになった。

本能寺の変が起きた時、家康は堺にいた。
安土城の信長に挨拶をした後、上方を見物していたのである。わずかな供(34人とされるが、大名の正式な行動だから数千人の兵を引き連れていただろうとも)だけを連れて孤立した家康は一時、「ゆかりの知恩院(浄土宗)で切腹する」とまで言い張ったが、本多忠勝に説得されて脱出を図ることになった。

この時、家康ら一行が伊賀を超えてのルートを選択したので、後世「神君伊賀越え」と呼ばれるようになったわけだが、上方から三河・遠江へ戻るルートは別に伊賀越えだけではない。
東海道を通るなり、堺から海路で紀伊半島をぐるっと回るルートなりもあったろう。歴史において「どうしてこの選択肢を取らなかったか」を探るのは難しいが、大きな道については明智の追手や街道封鎖を恐れたのだろうと考えられる。海路についてはこの時期の堺は織田軍による四国征伐に備えて船が払底していたり、あるいはそもそも長期航海そのものの危険性を考えたのだとも推測できよう。

ともあれ、家康一行は陸路で険しい伊賀越えを選択した。
ただ、実際にどんなルートを辿ったのかは史料によって記述が変わり、よくわからない。
通説とされるのは和泉から山城の宇治田原を通って近江小川へ入り、そこから伊賀を通って伊勢の海岸へ出るルートだ。以後は海路で岡崎に入り、無事逃げ延びたということになる。

この時に家康を助けたのは、伊賀者たちであるとされ、それはいわゆる天正伊賀の乱で織田家に攻撃された際に家康によって保護されたためであるという。
しかしそれだけではなく、近江小川で家康一行を保護した多羅尾氏は甲賀の人であって、彼らのような甲賀者も神君伊賀越えには大いに寄与したものと思われる。
なお、近年は史料の発見によって「実は大和を抜けたのではないか」という説も出てきていて、いよいよ真相は混迷している。

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