攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

上杉景勝 の検索結果:

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…日山城は、後を継いだ上杉景勝が会津に移封されると静かにその役目を終えます。現在は城郭はなく春日山に空堀や土塁、石垣や大井戸など山城 の特徴と言える遺構が残されているのみ。春日山城跡の中腹には遠くを睨むかのような凛々しい上杉謙信公の銅像が立っていますので必見です。 とも | 謙信公像[春日山城] その他にも本丸跡や上杉景勝屋敷跡、直江兼続屋敷跡、毘沙門堂跡など石碑があちこちに建っているので散策するのが楽しい史跡だったりします。 所在地 新潟県上越市大字中屋敷ほか アクセス 車の…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…。さらに家康は会津の上杉景勝を討伐するためと軍を発し、政宗もこれに従い戦が勃発します。家康が機内から離れている隙をついて日頃から家康に反感を抱いていた石田三成らが毛利輝元を総大将として家康に対して挙兵します。1600年、これが世に言う「関ヶ原の戦い」のきっかけとなります。 上杉と戦っていた家康はここぞとばかりに石田三成を討つべく機内へ戻り、関ヶ原にて西軍と東軍が激突します。 その時、政宗率いる伊達軍は「長谷堂の戦い」で最上義光と共に、上杉家の軍師である愛の兜の名将、直江兼続と…

大ふべん者・前田利太

…の時期には、北の雄・上杉景勝の重臣である直江兼続との縁から、上杉家臣として最上氏らとの戦いに参加していた。 この際、利太は「大ふへん者」と書かれた旗と、優れた武士しか持つことを許されぬ朱柄の槍を持参していたとされる。これが上杉家臣団からの大反発を食らった。旗の文字は「大武辺者(=武勇に大変優れた人物)」と読めたため、槍とあわせて「新参者の癖に生意気だ」となったわけだ。利太は笑って「これは『大ふべん者』と読むのだ。浪人の自分は金もなければ妻もなく、ただただ不便だということである…

家のためか、信仰のためか? 細川ガラシャの死

…徳川家康に付き従って上杉景勝討伐に出かけていたときのことだ。この時期、ガラシャをはじめとする大名の家族たちは大坂城下の屋敷に住まわせられていた。実質的な人質である。そして、家康不在を好機と見た石田三成が挙兵し、関ヶ原の役が始まる。 三成はさっそく彼女たちを人質として活用するべく、まず最初にガラシャに対して「大坂城にくるように」と使者を送った。名門・細川氏を押さえることの意味も大きかったろう。これに対し、ガラシャは断固拒否の態度をとった。出発前の忠興が「人質にならないよう気をつ…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原前哨戦に隠された真実―上杉征伐と幻の前田征伐

…員で、会津の大大名の上杉景勝に謀反の疑いをかけた。「領地に戻って軍備を整えているのが怪しい」というわけだ。これに対して景勝の側近である直江兼続が家康を非難する手紙を送ったため、激怒した家康は上杉征伐の軍勢を起こした。そうしてがら空きになった近畿で石田三成が挙兵し、これを知った家康もまた軍勢を率いて取って返し、東西両軍が関ヶ原の地で激突したわけだ。 実のところ、家康は自分が上杉征伐に出れば三成が挙兵するであろうことを知っていたらしい。それどころか、三成を挙兵するためにこそ出陣し…

安濃津城 女武者が守った城

…いが起きる前、家康は上杉景勝に上洛を要求し、拒否されている。家康はこのことを口実に上杉氏征伐のために兵を出した。安濃津城主・富田信高もそれに加わり、上杉氏征伐のために兵を出した。 ところが、宇都宮にいた信高は挙兵した西軍が安濃津城を取り囲んだという一報を受け取る。それを知った信高は西軍の包囲網を突破して居城へと引き返している。 取り囲む西軍は3万あまり、対する安濃津城側はわずか1700だけ。戦う前から結果は見えているような状況だったのだ。 信高が討ち死にを覚悟した時、ひとりの…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…もまだ未成年ですし。上杉景勝と織田信忠がひとつちがいなんですね。 #真田丸 pic.twitter.com/RbWBbBZoTr — 攻城団 (@kojodanjp) 2016年1月17日 第3回「策略」 悩んだ末に信長につくことにした昌幸。 昌幸の「わしは○○に賭ける」というのもギャグのパターンになりましたね。しかしまあ史実をベースに書いてるはずなのに、よくもまあこんなにうまく笑いを入れますよね。 続々と登場人物が増えますが、まずは西村雅彦さん演じる室賀正武ですよね。 数週…

唐入りの前線基地、名護屋城はめちゃくちゃ広かった(そして名護屋城博物館はすごかった)

…弘の名前があります。上杉景勝のとなりには直江兼続の名前があります。そのそばには織田秀信や真田昌幸がいますね。秀信はこの位置なのに、織田信雄はけっこう離れた内陸部にいます。 徳川家康は名護屋浦という内湾部の両側に陣がありました。ほかにも藤堂高虎も2カ所に名前が書いてありますね。 このすべての陣跡をまわろうと思ったら数日はかかりそうです。 ほかにも安宅船と亀甲船の模型もありました。 これだけの展示が無料で見学できて、しかも一部をのぞいて撮影可となっています。 それではいよいよ城址…

よくわかる第一次上田合戦

…すけど)。 それから上杉景勝が6500人ほど援軍を差し向けていますが、合戦には参加しませんでした。この兵力を加えていれば数の上では逆転してたんですけどね。 いずれにしても、「第一次上田合戦」は自軍の3倍以上の兵力を持つ徳川軍に対して、真田昌幸・信幸父子が知略を用いて完全勝利をあげた戦いです。 そして昌幸がすごいのは、この合戦の最中にじつは秀吉に連絡をとっている点です。最悪の場合、仲裁を頼もうと思っていたのかもしれません。二手三手先を読んでますよね。 ドラマではどう描かれるか、…

真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

…御館の乱」が起こり、上杉景勝が家督を継ぐ。 1579年(天正7年) 13 1580年(天正8年) 14 昌幸、沼田城の攻略に成功。以降、沼田領は真田家が支配する。昌幸、従五位下・安房守に叙任する。 1581年(天正9年) 15 大河ドラマ『真田丸』はここから 1582年(天正10年) 16 3月、信繁は新府城から帰国を許され、信幸や母・山之手殿とともに真田領に帰還。昌幸、織田信長に臣従し、滝川一益の与力武将となる。6月19日に一益が「神流川の戦い」で北条氏直に敗れ逃走すると、…

リアル真田丸を見てきました(三光神社、心眼寺、安居神社などを訪問)

…徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の五大老、現在風でいえば、大物大臣である! さらに、五奉行に石田光成、浅野長政、増田長盛、前田玄人、長束正家をおいた、秀吉死去により、家臣石田光成、浅野長政軍は関ヶ原で、徳川家康との最後の戦となった、秀吉の長男秀頼を母淀君が庇って戦いに出さず、豊臣家の家臣が、次々と徳川家に付き、関ヶ原で石田光成軍が敗北した! そのころ、真田幸村は和歌山九度山にいた、大阪城にかけつけた時、大阪城は徳川家の手におちる寸前であった!大阪城攻防で名高…

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