攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

久留米藩 の検索結果:

攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

…賀家、高松藩松平家、久留米藩有馬家、熊本藩細川家などがあります。 またこれらの藩がずっと力士のパトロンになっていたかというとそうでもなくて、あくまでも藩主のパーソナリティというか、相撲好きかどうかで決まったようです。戦乱もなく、江戸詰が基本の江戸大名にとって、趣味や道楽は暇つぶしの観点でも重要になりますが、その対象として茶道や華道と同じように相撲もあったのかもしれません。 なお今回このテーマを取り上げたのは、団員のたまさんから2019年に「江戸時代にはお抱え力士がいた藩があっ…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…て、江戸時代には筑後久留米藩に21万石を持った。有馬からさらに別れた流れが徳川忠長から紀伊藩の徳川頼宣へ仕え、有馬氏倫(うじのり)がその紀伊藩から出た吉宗の側近になって、譜代大名になった。 一色氏 ・一色氏は丹後を本拠地にしていた本流が細川忠興に滅ぼされた。庶流からは家康側近として活躍した僧侶・以心崇伝が出た。彼の従兄弟の家は信長・家康・秀吉と仕えたが、結局断絶している。ただ、庶流の中には大名になった家もあり、甲斐武田家に仕えて土屋を名乗った家は武田滅亡後徳川家に仕え、老中も…

【殿様の左遷栄転物語】強運の男 徳川吉宗の時代

…家は、もともと筑後国久留米藩主の有馬家の一族が、徳川忠長に仕えるも主君が改易され、やがて紀伊藩に仕えるようになったものである。吉宗の側近としての活躍を評価され、伊勢国西条藩1万石を与えられた。彼の血筋は幾度か転封を繰り返しつつ、明治維新まで続いている。 一方、久通の家は松平の流れで、戦国時代には徳川家臣だった。やがて徳川家康の小姓を経て徳川家宣に付き従い、以来代々紀伊藩士だったのが、久通の代に直臣へと戻ることになったわけだ。同じく吉宗の側近としての活躍を評価され、伊勢国八田藩…

【戦国時代の境界大名】有馬氏――内憂外患を周辺大勢力の力で乗り切る

…し、筑後国(福岡県)久留米藩をはじめとしていくつかの大名家を輩出するに至っている。ただ、こちらの有馬氏は、播磨(兵庫県)の名門・赤松氏から分かれたものであり、摂津有馬郡有馬荘を名の由来とするものであり、本項で紹介する有馬氏とはまったくの別族である。 さて、肥前国有馬の周辺には肥後(熊本県)の菊池氏、北九州に広く勢力を持った少弐氏と名門武家がいて、有馬氏もこれらに従っていた。その勢力拡大の契機は、1491年(延徳3年)。戦国時代初期の有馬貴純(生没年不詳)の時、この頃衰退してい…

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