攻城団ブログ

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加藤忠広 の検索結果:

足利家の通字はなぜ初代「尊氏」に含まれない「義」なのか

…人物であることがわかったりもします。たとえば本多忠政・蒲生忠郷・京極忠高・加藤忠広・伊達忠宗など江戸時代初期の大名のほとんどに「忠」の字がついてますが、もちろんこれは2代将軍・徳川秀忠の偏諱によるもので、人名の情報量もなかなかのものですよね。 じつはこの将軍家の通字の話は編集でカットしたのですが、名前から縦のライン(=一族)と横のライン(=時の権力者)が見えてくる、ということを意識するとややこしい人名も少し興味が増してくるのではないでしょうか。 www.youtube.com

【江戸時代のお家騒動】牛方馬方騒動 豊臣恩顧の加藤家改易のきっかけとなる

…舞台】熊本藩【藩主】加藤忠広【主要人物】加藤美作守、加藤丹後、加藤右馬允正方 幼い主君では家中を押さえきれず 幼少期より豊臣秀吉に仕え、その子息・秀頼の後見人をも務めた加藤清正。関ヶ原の戦いでは東軍につき、肥後一国を賜った清正だったが、1611年(慶長16年)に秀頼と徳川家康の二条城会見を実現させた後、その帰国途中に亡くなった。 清正の跡を継ぐことになったのは、子の虎藤である。しかし、虎藤はこの時まだ11歳。しかも相続人としての将軍への謁見をまだ果たしていないなどの不安材料が…

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