攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

城柵 の検索結果:

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史②――統治拠点と防衛拠点

…。ひとつは環濠集落や城柵、武士の館の流れを汲むと考えられている支配拠点としてのそれだ。これらは武士の住居であると同時に、行政の発信場所としての役割を持つ。現代風に言うなら、県庁と県知事の公邸を合わせたような存在、といったところだろうか。 自分の領地を支配するための場所なのだから交通の便が大事だ。そのため、たいていは平地(とはいってもわずかに隆起しているところが多い)、あるいは山とその麓の小高い丘や平地を活用して築かれる。前者の場合は平城、後者の場合は平山城と呼ばれる(丘にある…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史①――古代の集落から、拠点としての城ヘ

…過程で築かれていった城柵で、こちらは平地や小高い丘に柵をめぐらせ、堀を作ることで構築され、守って戦うというよりは政治的な拠点の性格のほうが強かったようだ。 平安時代末期より軍人階級としての武士が出現すると、以後は彼らの私的な拠点としての城が登場するようになる。この際も方向性は二つに分かれており、武士の館や寺に堀など防御設備が設置されて要塞化する方向がひとつ、南北朝期に数多く見られたような天然険峻の山をほとんどそのまま防御設備として利用し、山城にする方向がひとつ、である。特に後…

【歴代征夷大将軍総覧】古代の将軍たち

…わち、軍事拠点である城柵を設置し、その近辺に柵戸(移民)を居住させることによって、ゆっくりと支配権を拡大させていったわけだ。有名な出来事として、658年~660年(斉明4年~6年)には阿倍比羅夫(あべのひらふ)による北征が行われているものの、これは蝦夷の各部族と接触して外交交渉を行う、という側面が強かった。軍事力を背景にはしつつも、力ずくで押しつぶす、ということではなかったのだろう。これらの過程で朝廷に従い、帰順してきた蝦夷は「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれ、各地へ移民させられた…

【お城の基礎講座】73. 城の歴史・古代

…元された大極殿 古代城柵(こだいじょうさく) 同じく700年頃になると新潟県から東北地方にかけて数多くの城柵(じょうさく)が作られました。これは大和朝廷によって作られたもので、東北地方や蝦夷(えぞ)の制圧のためと考えられています。 渟足柵(ぬたりのき) 出羽柵(でわのき) 秋田城(あきたじょう) 多賀城(たがじょう) などが有名です。敷地の中央に政庁の建物が置かれ、その周りを塀が四角く囲んでいました。防御性はあまり高くなく、城というよりも武装化した政庁と呼んだ方が良いかもしれ…

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