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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史①――古代の集落から、拠点としての城ヘ

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まずは駆け足で、戦国時代以前の日本における「城」事情について見てみよう。
最も古い城の形は、弥生時代の環濠集落(柵や堀で周囲をぐるっと囲んだ村)や高地性集落(高台に築かれた村)とされる。私たちのイメージする城とはちょっと違うかもしれないが、外敵と戦うために村を要塞化するのが城の第一歩だった、ということになる。特に環濠集落については佐賀県の吉野ヶ里遺跡が知られている。これは古代遺跡としても非常に有名だが、同時に日本100名城のひとつにも数えられているので、立派な城と考えていいだろう。

これに対し、飛鳥・奈良時代の大和朝廷が各地に築いた城の数々は軍事拠点としての性格が強く、私たちの想像する城のイメージに近くなっていく。
まずひとつ、朝鮮半島からの侵略を警戒して北九州や瀬戸内海沿岸に設置された朝鮮式山城(および、これより古いが同種の建築法で作られた山城「神籠石(こうごいし)」)がある。もうひとつは北方の異民族・蝦夷を征服する過程で築かれていった城柵で、こちらは平地や小高い丘に柵をめぐらせ、堀を作ることで構築され、守って戦うというよりは政治的な拠点の性格のほうが強かったようだ。

平安時代末期より軍人階級としての武士が出現すると、以後は彼らの私的な拠点としての城が登場するようになる。
この際も方向性は二つに分かれており、武士の館や寺に堀など防御設備が設置されて要塞化する方向がひとつ、南北朝期に数多く見られたような天然険峻の山をほとんどそのまま防御設備として利用し、山城にする方向がひとつ、である。
特に後者は大鎧を着込んでいた当時の武士に対して抜群の効果を発揮し(馬に乗らないと自由に動けないのに、馬では山の上へ行けない!)、ゲリラ戦的にわずかな兵で大軍を打ち破った楠木正成の活躍など、数々の籠城戦が現代に伝わっている。とはいえ、これはあくまで動乱の時代のための臨時の城。後述する戦国時代の城のように、ある程度恒久的に使うようにはそもそもできていなかったようだ。

そのため、室町幕府が成立して情勢が安定すると、山城の多くは破棄され、武士たちは平地や小高い丘の館を使用するようになる。
しかし平和とは長く続かないもの。有力守護大名家内部の争い、幕府内部の争い、足利将軍家の争いなどが相乗した結果として応仁の乱が起き、将軍と幕府の権威が大きく揺らいだ。さらに幕府重臣によるクーデターで将軍が幽閉されてしまった「明応の政変」がトドメとなって、室町幕府による統治体制は崩壊する。
時代は戦国乱世に突入し、再び戦うための城が必要になった。それも、南北朝期のような臨時的なものだけでなく、恒久的に使われる城が。

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