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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑩――内部分裂で落ちた城・七尾城

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能登守護の畠山氏が代々居城とした七尾城(石川県七尾市)は、初代当主。満慶により1428年(正長元年)頃に築城されたらしい。「天宮」と呼ばれた堅固な山城であり、そこからは七尾湾や港町が一望できたという。
能登畠山氏は戦国の動乱の中で上杉氏に滅ぼされるが、その上杉氏も織田軍によって能登より追われ、この城には織田家臣の前田利家が入る。そして、時代の趨勢が泰平に移る中で、山城の例に漏れず廃城となってしまった。

能登畠山氏が滅んだ最大の理由は、当主の発言力が失われて老臣たちが実権を握るようになったことだ。
しかも彼らは織田信長派と上杉謙信派に分かれており、中でも専横が目立っていた信長派の長氏(ちょう し)は、他の重臣たちから反感を持たれていた。
このような状態の七尾城を狙って、1578年(天正4年)に上杉謙信が越後より侵攻してくる。最初は能登畠山氏との同盟を持ちかけてきたのだが、長氏がこれを拒否したことから、城は上杉軍に包囲されることになった。

上杉軍は七尾城の南方に本陣を置いて七尾城を囲んだが、4ヶ月包囲し続けても城は落ちず、謙信は一旦軍をひく。
翌年、上杉軍は再び七尾城攻略のために出陣した。しかし謙信自身は直接七尾城の攻撃には加わらず、加賀・能登・越中を結ぶ要所に位置する末森城に向かった。
一方、籠城側からの救援要請を受け取った織田方からは、北陸方面司令官の柴田勝家を主将とする部隊が七尾城の救援のため出陣した。うまく彼らが七尾城にたどり着いていれば、能登畠山氏にも生き残りのチャンスがあったかもしれない。しかし、この軍団にはトラブルが絶えなかったらしい。

まず加賀に入った辺りで、羽柴(豊臣)秀吉と勝家の意見が対立し、秀吉が勝手に抜けてしまう。しかも、七尾城の情報が全く入らなかったので、なかなか迅速な行動に移れなかった。これは謙信が街道をすべて封鎖してしまったからである。
そうこうしているうちに肝心の七尾城では、謙信派の遊佐氏が裏切り、他の重臣らを誘って上杉軍を城内に引き入れていた。城内に乗り込んだ上杉軍は長氏一族を全員討ち取り、城を占領したのである。時の当主はわずか5歳の春王丸だったが、この落城の前に疫病で亡くなっている。遊佐氏らの裏切りの背景にも、彼の死によって城内がよりいっそう混乱したことがあったと考えられている。

七尾城が落ちたという一報は、かなり遅れて勝家らに伝えられた。
これでは進む意味がないと撤退する織田軍の背後を、七尾城に続いて末森城を落とした謙信が迫る。手取川で追いつかれた織田軍は大きな損害を受けたものの、謙信が深追いすることなく七尾城へと引き返したことでどうにか撤退に成功する。
こうして七尾城は謙信の手に落ち、能登畠山氏もまた滅亡することになった。どれだけ堅固な城であっても、内部に不和を抱え、援軍も来ないようでは、何度も持ちこたえることはできないのだ。

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